上達するというコト。
突然だが小学校1年生から高校3年生までピアノを習っていた事がある。
ピアノや音楽に興味があったわけでなく。
ただ、母親に強制された習い事っというやつだ。
当時はピアノをやっていると周りの友達に言うと馬鹿にされるのが嫌すぎて
ひたすらその事実を隠しており
毎週木曜日の夕方30分間だけトイレとか何かしら理由をつけて必ず家に帰る不自然な子供になってしまった。
僕のピアノに対するモチベーションは著しく低く。(ほぼゼロ)
日々の練習はおろか、中学生に上がる頃には知恵を絞って週1回30分間のレッスンをいかにピアノを弾かないで先生の時間を浪費させるかという事に精を出している始末だった。
姑息な人間だったためレッスンが始まるや否やトイレに引きこもったり、
全く違う話題に持って行ったりとまあまあな問題児だったと思う。
それでもピアノを辞めなかったのは、教えてくれていた先生が決して僕を怒鳴りつけるような人間性の持ち主ではなかった事と、練習を促すことはあっても強制をしなかった事。
そして何よりも若干ヒステリーっぽい母親にピアノを止めたいという事を伝えることが恐ろしかったからだと思う。
そんなモチベゼロ。
の状態ではあったが結局12年もの間、週1でピアノの前に30分くらい座るという時間を過ごしてきた。
12年もやってきておいてなんだが未だに楽譜をきちんと読めない。
あのオタマジャクシみたいなやつが音階を示しており、なんとなくそれに沿って指を動かせばメロディになるということや、コードは難しいやつ以外一通り把握している位だ。
にも関わらず。
今もそれなりにピアノを弾くことは出来るし、全く弾けない人からしたら
「ピアノが弾ける人」
という認識になる。
数の暴力
というのは上達するという点については実に効果的だと思う。
12年・週1・30分という時間は積み重なって膨大な時間になり
単純計算でも1年は約52週×12年=624週間
624週×30分=18,720分=312時間
正月とかは流石にレッスンは無かったかと思うけど、低学年期は自主練習もしていたので差し引きで±0と考えて
312時間くらいはピアノを弾いている時間が少なく見積もってもあったのだ。
流石に300時間も弾いてればモチベ0でも
それなりに出来るようになる人間の上達力。
実に面白い。
今回のテーマは上達するというコトっというテーマを謳ったのだが。
スポーツに限らずどんな物事にも上達はある。
箸の使い方から、字の書き方、スマホのフリック入力の速度から料理までどうやら、人間は取り組めば何かしら上達していく生き物らしい。
僕たちは当たり前のように箸が使えるようになり、慣れなかったフリック入力やPCのタイピングでさえ今やサクサクと行えてしまう。
箸の使い方が一向に上達せず、一生箸が使えないまま人生を終える日本人はそう簡単に見つからないはずだし。
字が書けないままの人もそうそう居ないだろう。
これらは教育機関や、家庭の中で好きとか嫌いとか関係なく
試行回数という数の暴力で動きを反復させ刷り込ませていくから上達しているのだと思う。
僕が運営する神立フリースキースクールには三浦コーチという人物がいる。
並々ならぬ努力で圧倒的なジブ(レールの上を擦ること)力をつけた男だ。
彼は、ジブのうまさを褒めると
ムカつくことに結構な確率で逆ギレをしながら
「皆やってないだけ!自分と同じ量をやったら絶対上手くなるっす!」
と言う。
確かにその通りだとは思う。
ただ、君と同じように夜中の1時までハイクアップ(リフトに乗らず歩いて登ること)で練習し続けれるのはある種の才能と恵まれた肉体があるからなんだよと。。。
上達するというコトには様々な要素が必要になると思うのだが。
数の暴力。
シンプルだがこれほど効果的なものはないのではないだろうか。
自分のピアノがそれを物語っている。
何かを上達したいと思った時。
三浦コーチのように特殊スキル「数の暴力」を自己発動させる才能がない人には
僕のようにヒステリーチックな身内によって強制されるというのも悪くないかもしれない。
それによって上達するコトが幸せかどうかは別としてね。
おわり。