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イギリス映画のアイデンティティーというものを考えた時に、大きく分けて1)ハイ・カルチャー、2)リアリズム、3)ラディカル、という3つのカテゴリーから考えることが出来るのではないかと思います。

ハイ・カルチャーとは文字通りハイ・ソサエティ(上流階級)の人々が生み出したカルチャーのことで、コスチューム・ドラマであったり、『ラブ・アクチュアリー』(2003)のようなコメディ、007フランチャイズなどジャンル的には多岐に渡るかと思いますが、共通してポッシュな英語を話し(実際のイギリス人であのようなアクセントで話す人は多くありません)、作り上げられたイギリス像をなぞって遊ぶような、そうした映画であると言うことが出来るでしょう。
これは映画産業が始まった最初期から英国内で受け継がれてきた伝統の上に成り立つものであり、アート映画の形成が60年以降と遅かった英国ではポピュラー・カルチャーがそのままハイ・カルチャーとして根付いていったという背景がありました。それは例えば1950年頃までハリウッドが人々の夢工場としてスペクタクルと笑いを提供してきた構図に似ていると言えるもので、ハリウッド、と言えばハッピー・エンドの大衆映画をイメージするように、イギリス映画と言えば紅茶にスーツ、そしてあのアクセントであるという風に人々にイメージさせる、正にそのイメージをこそイギリス映画がスタンダードとして発展させてきたものだったのです。

しかしこうしたポッシュな、気取った映画ばかりを観ていてはイギリス映画は半分も味わうことは出来ないでしょう。そこで登場するのが2つ目のリアリズムであり、今回の記事で取り上げる部分です(因みにラディカルというのはハイ・カルチャーに対するカウンターとして登場したリアリズムを更に批判する映画として、両者をまとめて取り扱うような立ち位置にあると理解して結構だと思われます)。
系譜を逐一辿って解説をするには幾分込み入った歴史的な事情が見られるものですから、今回はその全盛期、具体的には1959年から1963年に期間を絞ってその実態に迫っていくこととしましょう。今ではブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ、或いはキッチンシンク・リアリズムと呼ばれる映画運動について導入的な解説をしつつ、その複雑な背景事情と多大な後年への影響について道筋を付けていければと思います。

"Room at the Top" (1959)

さてブリティッシュ・ニュー・ウェイヴと呼ばれる映画運動ですが、そこに属する映画群は一般的にブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムと呼ばれる傾向を持っているとされています。
Social Realism、社会的リアリズムまたは社会主義リアリズムと訳されるこの単語は広く美術全般に対して適応される概念で、特に有名なものはスターリンが唱えた「社会主義革命へ貢献する、具体的芸術」と言う考え方でしょうか。より一般的にはロマンティシズムに裏打ちされた理想主義的芸術に対して、現実社会を直接的に見つめる芸術のことを指します。
何だか随分とつまらないアイディアに聞こえますがそれもその筈で、芸術という概念の本質は「所有」という行為、特に金銭的所有という行為にこそあることが今でははっきりしているからです。デュシャンの『泉』を始めとするコンセプチュアル・アートやダダ的反芸術が氾濫した結果、今ではアートとは「アートとして所有され、権威付けられることによってのみ成り立つ」ということが明らかにってしまいました。
ですから権威に守られることなくして成立し得ない芸術は、たとえそれが現実的にせよ空想的にせよ社会的革命に貢献することは決してありません(これを思い出させてくれるという意味で実験映画が重要であると言添えておきましょう)。映画に於いても同様で、作品の内で表現されている内容がどれだけ反抗的、革命的であれ映画自体は「直接」社会に貢献することは出来ないのです。

ですからリアリズム云々という理念には芸術的に少しの意味も存在などしませんし、社会的リアリズムであるとか空想的リアリズムの間にも概念的な違いは殆ど存在しないということが言えるかと思います。
ではどうしてソーシャル・リアリズムという単語が生み出され、使用されているのか、と言えばそれがアーティストの精神的な部分、創作に於ける指針であったり動機の部分とより密接に関わっているからなのですね。

イギリス映画の文脈で考えてみましょう。
フランスで『工場の出口』が製作されたのと同年の1895年、シネマトグラフは英国にももたらされ、最初の映画が製作されました(少なくとも記録に残る範囲でそう推定されています)。オックスフォードとケンブリッジで行われたボートレースを写したものであったそうです。
そこからメリエスが現れ映画全体が奇術的な方向へ向かうのに対し、イギリスでは早い時期から反発をする動きがありました。その先頭にいたのがジョン・グリアソンという人物であり、彼の唱えた理論とそれに基づいて製作された映画 "Drifters" (1929)という映画は後続の世代に非常に大きな影響を与えていきます。

The cinema, it seemed for a moment, was about to fulfil its natural destiny of discovering mankind. It had everything for the task. It could get about, it could view reality with a new intimacy; and what more natural than the recording of the real world should become its principal inspiration?

John Grierson ("Footnotes to the Film")

彼は上のように書いて、月面を舞台にしたり悪魔を登場させたり、或いは生首が飛び回るようなメリエスの映画を批判した訳です。この文脈を抑えることは非常に重要で、「現実を見つめる」ことで「人間について明らかにする」という文句は必ずしもリアリズムが芸術として優れているからである、という主張に基づいている訳ではなく、映画が「義務として課せられた全て」を放棄して空想に逃げ込んでいる現状を批判しているだけのことなのです。
ですから、グリアソンの映画や、彼に影響を受けたブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映画たちはハイ・カルチャーの映画、ポッシュな映画に対しての反動であったと見るのが正しい見方であり、彼らは現実のイギリス社会を無視した、または人々の生活からかけ離れた表現をする当時のイギリス映画にアンチを突きつけていた(「現実を見つめ」ようとした)に過ぎないのです。それこそがリアリズムは精神的にロマンティシズムのカウンターとして重要だと上に書いた理由であり、また実際にそのように機能していたのでした。

具体的に見ていくと、さてブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの先駆けとなった作品は一般に1959年、ジャック・クレイトンの『年上の女』だと言われています。そこにトニー・リチャードソンが『怒りを込めて振り返れ』(1959)で続き、翌年の1960年には早くもシーンの最高傑作であるカレル・ライスによる『土曜の夜と日曜の朝』が発表されました。61年、トニー・リチャードソン『蜜の味』、62年、再びトニー・リチャードソンで『長距離ランナーの孤独』、63年、リンゼイ・アンダーソンで『孤独の報酬』など多くの類似する作品が短期間の内に発表され、その為59年から63年までの4年間がシーンの全盛期として認識されています。
これらの作品の殆どが中部、または北部イングランドを舞台としており、従来のイギリス映画で見られるような豪勢な邸宅とはかけ離れた、貧相な分譲住宅に住む人間たちの暮らしにスッポットライトが当てられています。これは平均的なイギリス人の暮らしを考えれば遙かに現実的、特に言語面からは実際に人々が使用するアクセントそのままに撮影が行われており、その意味で「現実世界を記録すること」から「基本的インスピレーションを得ている」と言えるでしょう。

しかしながらジャック・クレイトンはブライトン生まれの子役上がり、トニー・リチャードソンは西部ヨークシャー生まれでありながら大学はオックスフォードに進学、同窓には後に首相となるマーガレット・サッチャーがいたようです。リンゼイ・アンダーソンに至ってはイギリス軍少将で少将を務めた軍人を父親に持ち、オックスフォード進学の際には奨学金まで貰っている生粋のインテリです。
何が言いたいかといえば、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの監督たちは皆中産階級以上に生まれたインテリたちであり、彼らによる言わば社会実験的な試みとして中部・北部の労働者階級にスポットが当てられていた、ということなのです。この点がグリアソンの時代からの最大の変化になるでしょう。彼らの精神の中にはリアリズムへの意識というものが間違いなくありましたが、それは現実から派生したリアリズム、それ以外には考えられないというような素朴な現実の表現ではなかったということですね。
ですからブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムというものを考える時に、
1)そのリアリズムはグリアソンが唱えた様な素朴な自然派的表現ではなく、寧ろ理念に基づいた社会主義的リアリズムに近かったということ、
2)しかしながら社会主義リアリズムが芸術に何の関与もしないことから分かるように彼らの作品に政治的な重みは存在せず(それは映画が生まれた瞬間からの事実)、従って映画的な文脈からハイ・カルチャーへの分かり易いカウンターとして機能した事実が最大の功績であること、
この2つが大前提として押さえられておくべきだろうと思います。

"Saturday Night and Sunday Morning" (1960)

さてハイ・カルチャーに対する精神的なカウンターという側面を確認したところで、それでは具体的にどんな側面が反抗的であったのか、見方を変えればブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムのどういった側面が既存の作品に破壊的(subversive)であったのか、この点について考えてみましょう。破壊的な目的とは何か?ハイ・カルチャーに対するアンチとは具体的に、何処から何処への表現の移動を示しているのか?

これを考える上で大切になってくるのが主題の部分、何が映画の中で表現されていたのか、という部分です。
中部・北部イングランドの労働者階級の暮らしを描いている、というのは既に説明した通りですが、その労働者というのは総じて若者、特に現状の生活に不満を持った怒れる若者が物語の中心になっていました。

Nine hundred and fifty four, 
Nine hundred and fifty-bloody five!
Another few more and that's the lot for Friday. 
Fourteen pounds three and tuppence four thousands of these days. 
No wonder I've always got bad back, though I'll soon be done. 
I'll have a fag in a bit, 
No use working every minute God sends. 
I could get through in half the time if I went like a bull, but they'd only slash my wages so they could get stuffed!
Don't let the bastards grind you down, that's the one thing I've learned. 
Jack's the one ain't learned it. 
"Yes, Mr Robo, No, My Robo, I'll do it as soon as I can Mr Robo"
And look where it got Robo, a fat gut and lots of worries. 
Fred's Alright. 
He's one of them knows how to spend his money, like me. 
Enjoy yourself, that's more than my poor beggars know. 
They get ground down before the war and never got over it. 
I'd like to see if anybody tryna grind me down. That'd be the day. 
What I'm up for is a good time, all the rest is propaganda

"Saturday Night and Sunday Morning" (1960)

これは『土曜の夜と日曜の朝』(1960)冒頭のモノローグからの引用になりますが、これを読めば彼らが何に怒っていたのかの全てが分かるのではないでしょうか。

第一に主人公はありふれたライン工の1人であるのですが、954、955と自分がその日作った部品の数を数えて悪態をついています。
これは分かり易く仕事への不満であり、支払われる給料の安さについての不満であり、職業病として痛む背中についての小言です。彼は自分の仕事に満足していないのです。『怒りを込めて振り返れ』(1959)でも主人公のジミーは労働者階級としての自分のつまらない仕事に不満を持っていましたし、『嘘つきビリー』(1963)の主人公ビリーも葬儀屋の仕事に不満でいつも空想ばかりに逃げ込んでいました。
ハイ・カルチャーの映画では大抵キャラクターたちは労働の必要がない貴族階級で、或いは労働の辛さは目に見えないものとして表現領域の外へ押し出されてしまっていますが、彼らの現実の状況として「自分たちの労働は面白くもないもので、金銭的にも肉体的にも大変なものだ」という不満、これが第一に彼らの怒りの対象として読み取ることが出来ると思います。

そして続くセリフを見ると "No use working every minute God sends" と語っており、仕事を怠ける自分を正当化しているようです。自分はジャックというキャラクターのように従順な人間ではなく、"Enjoy yourself"、「自分を楽しむこと」を知っているのだというのですね。
ジャックは"Yes, Mr Robo, No, My Robo, I'll do it as soon as I can Mr Robo"と言って上司の指示に従っている訳ですが、その結果として何が生まれるか。主人公に言わせれば"a fat gut and lots of worries"、「膨れ上がったお腹と一杯の不安」が生まれるというのですね。資産家、彼にとっては権力者と言った方が適切かと思いますが、の思う通りに仕事をしていては彼の私服を肥やすに過ぎず、また顔色ばかり伺って心配症になった結果自分は"grind down"、「すっかりやられてしまう」のだから、仕事など中途半端にするべきだと考えているのです。
この反抗というのは先に述べたような単に労働が退屈で大変だからという理由からのみ来るものではなく、労働とは人間性を剥奪し、個人を何か機械的で機械的で面白味のないものに変えてしまうのだ、という意識があってこそのものでしょう。だから彼は"Enjoy youself"と語っている訳で、これは労働そのものに対する反抗、個性の剥奪に対する反抗として読み取ることが可能だと思います。

そして最後に"They get ground down before the war and never got over it"という台詞があります。この台詞に合わせてラインで働く老人たちのショットが挿入されますから、この"They"というのは上の世代、父親世代の人間たちを指していると考えて結構でしょう。
戦時中は(どこの国でもそうですが)プロパガンダとナショナリズムの横行から硬直化が進行しており、戦勝国とは言え軍事的・地政学的に多くのものを失ったイギリス社会の中で若者世代からの反発というのは相当なものでした。日本の場合は敗戦国ですから、国体の改変→戦後民主主義と共産主義運動へ、という流れが分かり易いですが、イギリスにせよ、或いはアメリカにせよ戦後の意識改革というのは若者世代から少なからず起こっていたのですね。この辺りはビートルズやローリング・ストーンズと言ったロック・バンドの台頭や、スウィンギング・ロンドンと言ったムーブメントを見れば明らかだと思います。

他にもフランス哲学/文学界から噴出した実存主義の流れからの影響も見て取れるでしょうし(『嘘つきビリー』はモロに実存主義の影響を受けています)、サルトルの思想に少なからず刺激されたゴダールやトリュフォーが担ったヌーヴェル・ヴァーグからの影響も見逃せないでしょう。
第2の反発として解説した通り、権力に従順であること、そのことがもたらした戦後の苦難(= Age of Austerity)と硬直化に対して反抗しない旧世代は第1の反発として述べた非理想的な労働環境を招いた遠因としても考えられる訳で、そうした論理構造のもと旧世代全体を批判したいという思いがあった、または新世代として革新的でありたいという思いがあった。こうしたイデオロギーが全体を覆う第3の反発として読み取れると思います。

"A Taste of Honey" (1961)

総括です。
1959年から1963年に掛けて特に隆盛を迎えたブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムという映画運動ですが、それは映画史的な文脈から考えるにイギリス映画の土壌の中に古くから根付いていたリアリズムという手法を援用してハイ・カルチャーに対してアンチを突きつけた運動ったという風に理解することが出来るでしょう。
彼らがアンチを突きつけなけねばならなかったその理由とは戦後の変革期に於いて若年世代の持っていたエネルギーが反発のエネルギーとして老年世代、権力者たちへと向けられていたからであり、思想的な部分からも経済的な部分からもリアリズムという様式と親和性が高いという事情があったのでした。

ファッション、音楽、アクセント、性、人種など多くのタブーに挑戦したこうした映画は例えばリチャード・レスターの『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964)という娯楽映画に転じたり、或いはケン・ローチの『ケス』(1969)のような正当な後継作品を生み出すなど独自の発展を遂げていくでしょう。特に1996年に制作された『トレインスポッティング』はイギリスらしいgritty=ザラついた美学を全世界にアピールした一種の記念碑的な作品にもなっていました。
その重要性はイギリス映画史に於いて議論の余地もないほど明らかであり、『フィッシュタンク』(2009)や”Scrapper" (2023)と言った現代の作品にまでその影響は見られるのです。

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