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カウンター・カルチャー、これを社会の中に於いて大勢を占める集団とは大きく異なった観念に基づき行動を起こしたり作品を発表したりする、反体制的/革新的な文化運動の総体である、という風に定義しましょう。
この定義に鑑みれば60年代のイギリスで吹き荒れていたのは正しくカウンター・カルチャーに他なりません。それは「スウィンギング・シクスティーズ」という名前で呼ばれていましたが、その実態はロンドンのハイ・ソサエティに集中したヴィクトリア朝的なクラシックなイギリス文化から無階級的な文化への転換を促す反抗だったのです。
しかし、これを単に反抗とだけ捉えて、同時代のアメリカに見られた様なヒッピー的なカウンターと混同してしまってはならないでしょう。確かにアメリカには彼らなりの背景と複雑さがあったかも知れませんが、この2つのムーブメントは全く別物だったのであり、そしてイギリスの60年代カウンター・カルチャーには彼ら独特の複雑さを持っていました。
まず第一の特徴として挙げられるのは、ハイ・ソサエティに対する距離感です。
米国カウンター・カルチャーに於いては権力者階級は徹底的な解体の対象であり、その美学(=aesthetics)は全く異なる様式に基づいていました。バイカーズ・カルチャーであれば無骨なレザー・ジャケットにTシャツ、サングラスというスタイルがあり、ヒッピーであればカラフルなサイケ調の衣服やフレアパンツ又はブーツカットジーンズ、ターコイズなどのアクセサリーといった具合ですね。或いはボヘミア的な態度からアレン・ギンズバーグの様に保有する資産を使ってコミュニティを作り、非ブルジョワ的な生き方をシミュレートするという動きもありました。
対してイギリスの場合、ハイ・ソサエティを完全に拒絶するということは無く、彼らのスタイルを模倣しつつマイナー・チェンジを施していくという風な発展を遂げていきます。ファッションという側面では基本となるのはスーツ・ルックであり、トラッドからモダンへ舵を切りながらも端正なルックは保たれるでしょう。それはビートルズやローリング・ストーンズといった当時のアイコンを見ても明らかで(ビートルズはメジャー・デビューにあたってハードコアなファッションからスーツを着る様に説得されたという逸話があります)、彼ら程の経済力のない労働者階級の場合、一着仕立てたスーツとそれを汚さない為のレインコートというスタイルが定着していきます。これが俗に呼ぶところのモッズ・スタイルとなるのです。
このカウンター的でありながら、ハイ・ソサエティのルールにも則っているという複雑な距離感はMGM資本でスタートした007フランチャイズ、特に『007/ドクター・ノオ』(1962)の中にも見ることが出来るでしょう。
ショーン・コネリーの着こなすスーツは当時流行だったウエストラインを大きく絞り、着丈を長めに撮ったエレガントなスタイルとは異なり引き締まった肉体によく似合う伝統的なスリー・ピースです(現在のトム・フォード提供のスーツは捩れたラインが官能的なモダン・スタイルですが)。彼は国家機関所属の人間であり、女王陛下に仕える存在としてハイ・ソサエティにも顔を出す存在ですからこれは当然。そう思わせておいて彼自身の性格を見てみると、マニー・ペニーにはいつも軽快なジョークを飛ばすお調子者であり、また任務の派遣先では毎度グラマラスな女性と蜜月になる、という生粋のプレイボーイです。それも『007/ゴールドフィンガー』(1964)然り『007/サンダーボール作戦』(1965)然り任務の為には容赦無く女性を使い捨てるという非常な側面も持ち合わせていて、その冷酷さからは彼は単なるプレイボーイではなく「計算高いプレイボーイ」とでも言うべきキャラクターでもあります。更には任務の外では水着であったり、ラフなシャツなどを着ていることも多く、休暇となれば人で賑わうプールでリラックスすると言う庶民的な感覚も持ち合わせている。
性的に自由でモダンな風を装いながら、司令には従わなければならない被支配者階級で、裕福ではあるけれども一代で成り上がった人物で出自に恵まれているとは言えない。こうした特徴から見られる通りジェームズ・ボンドとは一見正当な上流階級の人間である様に見せかけてカウンター的な側面のある、ユニークな人物だと言えるのですね。ビートルズがスーツを着ていたり、ローリング・ストーンズの音楽がハロッズのBGMで流れていたりという屈折したハイ・ソサエティとの距離感、完全に拒絶するのではなく内側から解体する様に発展していったという点で米国カウンター・カルチャーとの差異を見出すことが出来るのではないでしょうか。
これと関連して、英国ではカウンター・カルチャーが比較的ハイ・アートとの距離感が近いということも挙げられるでしょう。
「スウィンギング・シクスティーズ」を代表する映画と言えばミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(1966)という作品が真っ先に思い浮かびますが、これは純アート的な領域で活動する監督による純アート的な映画であり、その点でアートの解体/革新に向かった米カウンター・カルチャーないしはアメリカン・ニュー・シネマと異なっています。
60年代はハリウッドが欧州で活動する映画監督たちを「発見」した時代であり、ブレッソン、ベルイマン、ゴダールといった監督たちの作品が驚きを以て受容されていった時代に当たります。これらの監督たちの洗練された美学とカメラの動きは当時のハリウッド・スタンダードとでも呼ぶべきスタイルとはかけ離れたもので、一般にヨーロピアン・アート・シネマと総称されるこれらの映画群はハリウッドに対して全く新しい映画文法を提示したのです。カメラ、照明、ロケーション、様々な観点から両者の違いを指摘することは可能ですが、物語という側面で見ると欧州の映画たちはより「自由」、規範や観客からの要求に比較的縛られず、映画作家の思う通りの物語を作っていたと言うことが出来るでしょう。
その最も顕著な例がミケランジェロ・アントニオーニ監督であり、そして彼の代表作『情事』(1960)です。第13回カンヌ国際映画祭での上映の際には失笑やブーイングが絶えなかった、という逸話は有名ですが、一般公開に際しても驚きと困惑が入り混じった反応が大半で、特に映画の導入となる(かに思われた)アンナが行方不明になった後、彼女のその後が明かされないままに映画が終わるという結末はこれまでの映画には全く見られないものでした。
*因みに『情事』に関して少しだけ無駄話をしておくと、行方不明になってすぐのシーン、クラウディアたちが手分けして探す場面で実は背景に小さなボートが写っているのが確認出来ます。ですからアンナはこのボートに乗って駆け落ちしたが、警察の手落ちでこのボートは確認されず行方知れずになったのではないか、というのが定説です。映画の本筋とは全く関係ありませんが。
さて、『情事』(1960)で一躍時代の寵児となったアントニオーニは続けて『夜』(1961)、『太陽がいっぱい』(1962)を発表して三部作を完結、更に1964年には『赤い砂漠』を公開と続けざまに映画史に刻まれる大傑作を残していきます。
それに引き続いたのが1966年の『欲望』であり、ここ彼は初めての英語作品に挑戦することになりました。本作は彼のフィルモグラフィの中でも極めて親しみやすい部類の作品に位置し、『太陽がいっぱい』の中では株式市場が無機質な世界のメタファーとして登場していましたが、今作ではポップ・カルチャーとファッション業界がその代わりを務めることになるでしょう。映画開始直後と最終盤に現れる白塗りの集団(モッズ)、ヤードバーズを起用したロック・ミュージック、ポップな色使いに未来的なモチーフを取り入れたファッションなど『欲望』には「スウィンギング・シクスティーズ」を代表するモチーフが数多く登場しています。
それらはしかし飽くまでアントニオーニ映画の文法の中で登場するのであって、モッズは幻想的なものを信じ追いかける集団のメタファー、ロック・ミュージックは曖昧さと狂気の坩堝に飲まれた主人公の心理状態、そしてファッションは主人公によける力強いコントロールを、また彼が世界と関係する方法の表現として機能しています(少なくとも表面的には)。これはモチーフを単なるクールの流用として使うだけの映画、それは「スウィンギング・シクスティーズ」に於いても別のジャンルにしてもそうですが、そうした映画とは一線を画するハイ・コンテクスト、ハイ・アート的なモチーフの扱いであり、本来カウンター・カルチャーが抵抗すべき既存のルールに対して完全に同調している訳ではありませんが、一定以上の歩よりを見せています(これは自国からアート映画が誕生せず、その結果ブルジョワ的な一部のポップ・カルチャーが大衆映画の顔をして広まっていた、という背景が関係しています)。
他にも『水の中のナイフ』(1962)でデビューしたばかりのロマン・ポランスキーを呼び寄せて製作された『反撥』(1965)や、その『水の中のナイフ』で脚本を手がけたイエジー・スコリモフスキの『早春』(1970)などロンドンを舞台に多くのアート的、非ハリウッド的な作品がその後も製作されていくことになるでしょう。
アメリカに於いてはハイ・アート的な映画、ヨーロピアン・アート・シネマが広く浸透するのは70年以降を待たねばならず、具体的には例えば『ミーン・ストリート』(1973)の様なフィルム・スクール出身たちの監督による作品を待たなくてはなりません。『イージー・ライダー』(1969)等の一部のカウンター・カルチャー映画の中にもその芽生えは感じられる所ですが、大前提としてこうした映画はハリウッドから離れることに焦点が当てられており、詰まり異国のハイ・カルチャーによって自国のハイ・カルチャー(=ハリウッド)に対抗するという、言わば「毒を以て毒を制す」的な使用に留まっています。そこには60年代イギリス映画に見られる様な海外から監督を呼び寄せ映画を製作し、またそうした映画の影響を受けて次の映画が製作され、また次の、という様な好循環はありませんでした(eg. 『欲望』→『If もしも….』→『時計じかけのオレンジ』)。
また殆どのカウンター・カルチャー映画はエクスプロイテーション映画、アンダーグラウンド・シネマ、ポルノ映画といった非ハリウッドかつロウ・ブロウ的なアートの世界に於いて最盛を極めており、その点でもイギリスとは異なっていた点も指摘される必要があるでしょう。特にエクスプロイテーション映画に関してはヘイズ・コードの緩和、撤廃も相まって急激に表現領域が拡大、そこにハリウッドが追いつけなかった間の時代ということで、質の向上というだけでなく、本数自体が爆発的に増加し、現代にまで残る多くの名作が製作された時代でもあります。その下から上へ、という突き上げの動きに対して、上から下へ、という流れ「も」取り込んでいたイギリス映画は全く異なる様相を見せていたと言うことが可能なのではないでしょうか。
60年代、イギリスは確かにカウンター・カルチャーの中にありましたが、その実態は少々独特で、世代交代/価値観の転換を巻き起こしながらもハイ・ソサエティ及びハイ・カルチャーに対して幾分親和的でありました。
このことは映画史、そしてイギリス映画史にとって非常に重要な出来事であり、大きな物語としてはヨーロピアン・アート・シネマとハリウッド/メインストリーム・ムービーとの間を結ぶ存在として機能した、という功績が挙げられるでしょう。反動として70年代〜80年代に掛けてハリウッドからの冷遇を受ける、という話もあった訳ですが、それは反対に以降のブロック・バスター作品の量産と反動としてのオルタナティヴへの揺り戻しを産む結果にもなり、その意味でイギリス映画は世界地図を塗り替えるXファクターとして立っていたことになります。
またイギリス映画史単体という観点から見ても、この時代に確立されたブリティッシュ・アート・シネマ(主にリンゼイ・アンダーソンの功績による)は国家的なアイデンティティとして発展していきましたし、NYアンダーグラウンド・シネマが衰退した70年以降も独自の発展を遂げ、ピーター・ウォーレン/ローラ・マルヴェイ作品へと結実していきます。
「スウィンギング・シクスティーズ」単体で見れば他の映画運動と比べて突出した作品は少ない様に見えますし、また代表作である『欲望』(1966)だけを切り取っても他のアントニオーニ作品と比べて見劣りする感は否めません。
それでも映画史全体、世界史全体として捉えた時の60年代イギリス=ロンドンのカルチャーは非常に大きな影響力を誇っており、歴史の点と点を結ぶ存在として大変な意味合いを持っていたということが出来るのではないでしょうか。