【研究】二つの常敬寺の寺社伝承からみる怪談化条件~「鼻取太子」と天の逆手の「阿弥陀如来坐像」を例に
二つの常敬寺の寺社伝承からみる怪談化条件
~「鼻取太子」と天の逆手の「阿弥陀如来坐像」を例に/釋唯真
一、はじめに
令和六年(二〇二四)八月、私はある雑誌の紙面を開いたまま、ショックのあまり固まってしまっていた。
今回の論考は、その出来事に端を発して執筆したものである。
UFOや超能力、幽霊、怪異といった所謂オカルトをテーマにした月刊雑誌に
『ムー』(ワン・パブリッシング社)がある。
その二〇二四年九月号/No.526に、素通りすることが出来ない内容の
記事を見つけた。
それは、私の御先祖にあたる浄土真宗の僧侶、唯善が「仏像に呪いを込めた」と読み手が理解し得る趣旨が登場する特集であった。
「唯善の呪い」とでも表せばよいだろうか。
本稿では、まったく謂れのないこうした伝承がなぜ記録され、そして現在に
至るまで語りつがれているのかについてみていきたい。
そしてその「呪い話」の伝承と、長野県高山村に残る、唯善子孫が関係する
「鼻取太子」(はなとりたいし)の伝承とを比較し、
寺社縁起の創作と拡散、そして受容のされ方について考察していきたい。
端的に言えば、「怪談化する寺社伝承」とそうでないものとの差について指摘したいと思っている。
二、唯善と私の関係
私は現在、新潟県上越市にある真宗大谷派の寺院、中戸山 西光院 常敬寺の副住職を務めている。
もともとこのお寺は弘安七年(一二八四)に下総国中戸(現 千葉県野田市)で中戸山 西光院として創建された。(1)
【1:寺伝は、釋唯真『常敬寺のあゆみ 下総国~信濃国~越後国』(二〇二三)に詳しい】
寺院建立の背景には鎌倉幕府第七代将軍、惟康親王の支援と亀山法王、後宇多天皇両帝の御叡慮があったと寺伝に記録されており、後宇多天皇の勅願所として東国において寺勢を誇った真宗寺院であった。
しかし時代がくだるにつれその力も衰微していったとみられ、
蓮如期になると本願寺へついに帰順し、
「我が本願寺を常に敬え」という敗北の印として
「常敬寺」の寺号が蓮如から与えられることとなった。
上下関係が完璧にここで定まったのである。
(「敬い」とは押しつけるものではないのだが)
その後、第三次関宿合戦(一五七四)により堂宇を焼失すると、信濃国山田郷平塩(現 長野県高山村)に避難し、二十年程を過ごした。
そして慶長の初め(一六〇〇頃)に越後国の堀氏に招かれ、現在に至っている。
件の僧侶、唯善とはこの寺を創建した初代住職であり、浄土真宗を開いた
親鸞の孫にあたる人物である。本願寺を創建した覚如の叔父になる。
唯善は、覚恵・覚如親子と親鸞の廟所である大谷廟堂の留守職(管理人)を巡って争った。
廟堂の土地は本来唯善の父、小野宮禅念の私有地であった。
この争いは、大谷廟堂が建つ土地一帯の大元を支配する、本所というべき青蓮院の裁判のもとで行われた。(2)
【2:当時の土地の所有権・所有観は現在とは違い、所有者が重複していたり、複数いたりした】
唯善は裁判では敗れたが、そののち幕府の置かれた東国を活動の拠点とし、先述の通り将軍や天皇からの庇護を受けた。
そしてその唯善からみて二十八代目となる末裔が私であり、そうした関係性
から『ムー』の当該記事に関して傍観したり、放置することはできない
立場にあった。「自分事」であり、大事である。
さらに、後述するが『ムー』特集に引かれる「唯善の呪い」の参考元に
なったのは、『須高』第十三号(一九八一)の「真宗特集」だという。
このことはムー編集部との手紙を介したやり取りの中で知る機会を得た。
早速、古書店で当該号を購入し、内容を確認すると、結論だけを先に申せば、「唯善の呪い」にまつわるような論考は確かに記されていた。
研究の糸口として、極めて個人的な関心領域からの出発となったが、しかし、本稿で取り扱うテーマは寺社縁起の「語り」を調べていくうえで幅広く
参照され得る視点であると思うし、また、「実例」そのものであると考えている。将来の類似研究のサンプルともなるだろう。
三、二つの「常敬寺」
『ムー』や『須高』で語られる「唯善の呪い」とは、とある寺に祀られている阿弥陀如来坐像と関係する伝承のことである。
その寺の名前は浄土真宗本願寺派に属する「中戸山 西光院 常敬寺」といい、千葉県野田市にある。
気付かれた方も多いだろうが、私が所属する唯善開基の寺と同名である。
そして、私たちが元々いたと思われる土地に建つ寺院である。
であるが、唯善や私たちとは血縁といった関係はないことを先に申し上げたい。
しかしその寺院も、私たちと同様の縁起、つまり唯善が創建したという縁起を持つ。
一体どういうことか。
なぜ同じ歴史を語る寺が二つあるのか。
これは前節で触れた、当山が下総国を離れ、信濃国にやって来るきっかけとなった戦乱(第三次関宿合戦)と深く関係している。
呪いとはなんなのかという具体的な内容に入る前に、前段階としてこの二つの常敬寺にまつわる歴史について最初に説明したい。
中々本題に入らず、もどかしく感じる方も多いだろうが、この歴史の説明を抜かすと次節以降の話が全く不明瞭なものとなるため、お許し頂ければ幸いである。
一七〇〇年代に書かれたと思われる、当山所蔵の「善流住職文書」に、
ことの経緯が詳しく書いてあるので引用したい。
善流は、当山の第十七代住職にあたる。
それによると、焼き払われた私たちの常敬寺の跡地は地域のリーダー格であった報恩寺に、なし崩し的に接収されたことが伺える。
『福専寺ハ報恩寺ヨリ焼跡ニ庵室ヲ立置
看手ヲ ツカワシテ中戸山ノ門徒ヲ支配ス』
『道場ノ子孫相続シテ漸寺号ヲ申シ
福専寺トナリ報恩寺ノ末寺トナル』
『同十三庚辰年 彼福専寺西ヱ改流ス
即常敬寺ノ寺号ヲ願フ』
(善流住職文書)
常敬寺跡地に報恩寺が念仏道場(浄土真宗における簡易的な寺)を
建てたのだという。
そしてその道場はやがて「福専寺」(3)という報恩寺の末寺となった。
【3:竹内寿庵『親鸞聖人御旧跡并二十四輩記』(一七三一)は福泉寺表記】
また、報恩寺と関係が深い長須阿弥陀寺の「阿弥陀寺系図裏書」にも福専寺に関する記述があり、
元禄十三年(一七〇〇)に「西帰参」して、
元禄十四年(一七〇一)、
「横曽根報恩寺證西上人隠居せられ候
時節以来、福泉寺 寺号を改め、中戸常敬寺と号す」
(長須阿弥陀寺「阿弥陀寺系図裏書」)著者による書き下し
との言葉がみえる。(4)
【4:今井雅晴「性信坊関係史料(続)」『茨城大学人文学部紀要』第二十号 (一九八七)】
系図の裏書に福専寺の略縁起が記されているということから、もしかすると阿弥陀寺の寺族が看手に就いたのかもしれない。
福専寺は元禄十三年(一七〇〇)に所属していた東派(現 大谷派)から西派(現 本願寺派)へ移って、報恩寺から独立した。
そうしてその翌年、元禄十四年(一七〇一)に当時の西本願寺住職・寂如によって、私たちと同名の寺名へと改称されたのである。
そのタイミングで、「唯善が創建した」という歴史も名前と共にコピーされたというのが事の顛末になる。
本願寺が東西に分裂すると、双方は自身の勢力を拡大させるため、有力寺院を取り合うようになる。
福専寺を常敬寺へと改称させた寂如は他にも、たとえば井波瑞泉寺(富山県)が東派に転じた際、これを看過せず、高田勝願寺(新潟県)に「瑞泉寺」の寺号と歴史、そして宝物を与えている。
元々、私たちの常敬寺は西派に属しており、延宝七年(一六七九)に東派へと転じた過去を持つ。西本願寺との「喧嘩別れ」だったようである。(5)
【5:大場厚順「高田常敬寺について 改派に関連して」『頚城文化四五号』上越郷土研究会(一九八八)。また釋唯真「江戸時代の常敬寺改派問題(お西→お東)について」『常敬寺のあゆみ 下総~信濃~越後』(二〇二三)】
福専寺が常敬寺に改称したのは元禄十四年(一七〇一)のことである。
つまり、福専寺が西派へと転じたのち、瑞泉寺の件と同じく寂如によって
常敬寺の寺号が与えられたのは、恐らく私たちの転派を受けての報復処置であったと考えられる。
なんにせよ、当時の西本願寺にとっても「常敬寺」が必要だったのだろう。
以下、そうしたあゆみを語る他文献も併せて引用し、紹介する。
「現地には元禄十四年(西)本願寺寂如の命によって復興された西派常敬寺がある」同朋大学佛教文化研究所『真宗初期遺跡寺院資料の研究』(一九八六)403p.
「一時廃絶の状態にあった中戸の常敬寺には、その後ささやかな堂宇が建てられ、福専寺と号していたが、顕如上人のときに、本願寺由縁の寺院だから復興させるようにというお声がかりで、関東の由緒寺院の殆どが協力し、性信開基の報恩寺などが第一線に立って力を副(そ)えて再建した」
知切光歳『親鸞の寺々』春秋社(一九七三)116p.
こうして唯善を語る常敬寺は現在、新潟県上越市と千葉県野田市にみられる
わけだが、唯善の末裔として連綿とそのイエと歴史を紡いできたのは、上越市の常敬寺である。
野田市の常敬寺は元々報恩寺の末寺として創建され、唯善とは関係がないという史実を確認して頂きたい。
というのも、繰り返しになるが、このことが抜け落ちては、本稿の主旨がまったくぼやけたものとなってしまうからである。
四、語られる「唯善の呪い」
私が目にした『ムー』の特集は以下のものである。
吉田悠軌「怪談『裏拍手』と古神道の呪術」
『ムー』二〇二四年九月号/No.526 74-79pp.
この特集の主題は、
「あべこべ・さかさまに手を叩く『裏拍手』あるいは『逆拍手』『逆手(さかて)拍手』にまつわる怪談の起源を求めていくことにしよう」77p.
という独自の『手』の動きや印相であり、それらをもとにオカルティックな
エピソードについて考察していく形が取られている。
「唯善の呪い」はそうした呪いを表す手の一例として登場する。
「『古事記』でもイザナギは黄泉国の軍勢に向かって後手で剣を振り、山幸彦は兄・海幸彦に釣り鉤を返す時、後手に渡して呪いをかける。
面白い事例として、野田市にある常敬寺の有形文化財『木造阿弥陀如来坐像』を挙げよう。
この仏像は両手の甲を胸の前で向ける珍しい印相をしている。
一説にこれは、作者・唯善が寺の跡取り争いに敗れ破門された恨みを込め、後から両手をすげ替えたものという」
「その他の各時代の資料においても、やはり天の逆手はアクションとして
裏拍手と同じであり、死に繋がる呪いと捉えるケースは散見される」79p.
この記事に関して、私はムー編集部に手紙にて出典元を尋ね、そしてそれが『須高』第十三号(1981)であることが分かった。
該当号の『須高』では、阿弥陀如来坐像の印相について以下のように触れている。なお、巻末の史料紹介の項にあたり、「匿名」での記事である。
(とても学術誌的姿勢とは思えない)
「これについて常敬寺の寺記は、『これは仏像の儀軌に基づく印相ではない。日本の古い咒術である天の逆手を打つ形をしている』。それでは『天の逆手を打つ』とはどんな場合であろうか」148p.
この後、匿名の著者は『古事記』と『伊勢物語』から天の逆手の類例を
探し出して考察を進める。
「悪しきこと、異常なことを祈る場合の呪術として、伊勢物語の中にも天の逆手が用いられているのであろう。
さて常敬寺の阿弥陀像は手の甲を向かい合わせて天の逆手を取っている。
この仏像はいったい何を祈り、何を呪っているのであろう」
「常敬寺阿弥陀像はあるいは唯善自身の特別の依頼で天の逆手像が制作されたのかもしれない。いずれにもせよ、野望に敗れた唯善の怨念が伝わってくるような阿弥陀像である」149p
なるほど、確かに『ムー』に見られる内容にほぼ沿った記述が、『須高』に
散見されることが分かる。
著者が耳にしたと思われる「常敬寺の寺記」とはなんだったのであろうか。
私も資料から野田市常敬寺(当時は自治体の合併前なので関宿町になる)の阿弥陀如来坐像の縁起(6)を確認したが、
【6:同朋大学佛教文化研究所
『真宗初期遺跡寺院資料の研究』 (1986)】
それらしい内容は見当たらなかった。
寺を訪れた際に説明された、普段は公開されていない文書か、口承での記録に触れたものかもしれない。
まさか、『須高』の匿名著者が創作で書いたわけではあるまい。
ともかく、こうした「唯善の呪い」を扱った文章を読んで私が懸念したことがある。懸念というよりも、恐怖しているといったほうが適切かもしれない。
それは、こうした「ちょっとしたお話」からどんどんと話が広り、もはや手に負えなったオカルト話や都市伝説、怪談が数多くあるということである。
たとえばYoutubeの
「THEつぶろオカルト調査隊」(7)
【7:https://www.youtube.com/@the7190】
というチャンネルを見ると、そのことを実感できるであろう。
普通の民家や神社が噂話によって怪談要素が加えられ、やがて恐怖の
心霊スポットへと塗り替えられてしまったという事実を、実地に赴いて検証している。
何を隠そう、私自身、子供の頃からエンターテインメントとしての「オカルト好き」だ。
特集を書いた吉田悠軌氏のファンでもあるし、『ムー』を定期的に購読していたため、私は今回の特集について気が付いたというわけなのだが、それゆえに、このようなちょっとした噂話に尾ひれはひれがついてやがて怪談化していくという、そうしたロア(都市伝説や怪談話)の形成過程を知っている。
その「怖さ」を知っている。
怖さというのは、もし唯善に今後「呪いのキャラクター」という性格が付与されたら、もうその流れを止めることはできないという意味である。
そうなる前に、しっかりと論考を行い、「唯善の怪談化」を未然に防ぎたいという思いが強くある。
そしてそれは同時に、「怪談化」というプロセスに伴う人々の行動それ自体について問うことでもある。
五、寺伝の強調と怪談化
遅まきながら、本稿では怪談を、
「恐怖を感じる話、怪しい話、不思議な話」
と大まかに定義したい。
そのうえでまず指摘したいのは、怪談とは人から人へと受け渡されていく
「情報」の集まりだということである。
「ここでは昔、怖い事件があった(らしい)」
「その事件で一人亡くなった」
「亡くなったのは若い女性だ」
「だから夜になると女性のすすり
泣く声が聞こえる」
「その声を聞くと死んでしまう」
といった具合に、一つの話(噂話)を起点として様々な情報が付け加えられ
(あるいは削られ)ていく。
怪談の種となる話が人々の間に広がるにつれ、当然情報の密度も高まっていく。
それを聞いた人、受け取った人の中からさらに「実はこんなことを聞いた事がある」といった形で話の枠組みが広がったり、補強がなされるからである。
集まった情報をもとに、話の時系列が整理されたり、人物の描写が詳細に
なったりと、人から人へと渡され続けた(流行した)「与太話」は、やがて立派な怪談へと「整えられて」いく。
このような怪談化の流れをみていくと、野田市の常敬寺にある「阿弥陀如来坐像」には「唯善の呪い」が込められているという「寺記」が、怪談化における一番最初の起点となり得る話であることが分かる。
いわゆる種本のようなものといっていい。
『須高』第十三号の記事をよく読むと、「常敬寺の寺記」は直接的に「唯善の呪い」と明言していないことに気が付く。
「阿弥陀如来坐像の印相が、古い呪術に通じている」
といった説明のようである。
しかし、それを受け取った側が話を広げてしまうのである。
「本願寺に敗れた僧侶」、
「そのお寺に祀られている仏像」、
「その印相は古い呪術の形だ」。
点と点を好き勝手に結んでしまう。
そうすることで、「僧侶が仏像に呪いを込めた」という「新しい情報」がこの世に生まれる。
そしてその情報はなかなかショッキングであるし、興味を惹かれる人たちも多いであろうから、さらに情報の受け手を誘って、波紋のように広がっていく。
そして実際に「寺記」の内容が、一九八一年には『須高』で、
そして二〇二四年では『ムー』で語り継がれている。
だが、詳しくは次節に述べるが、この仏像に対する「寺記」の内容には、
野田市常敬寺成立に大きく関わった本願寺寂如のある狙いがあったと私は
みている。
「寺記」そのものが、阿弥陀如来坐像の印相を唯善の呪いと明示して語っているわけではない。
それは真宗の教義と反することだからという部分もあろうが、しかし、
多くを語らずとも「唯善」、「古い呪術」という単語を用意するだけで、
あとは勝手にこの二つの情報から受け手側が話を作ってくれると寂如は分かっていたのだろう。(実際にそうなった)
そしてそうして広まる寺社伝承、情報は、この寺院が「唯善の寺」であるという印象を周囲に強く認識させる効果をもたらしたと考えられる。
寂如の目的は、この点に尽きるだろう。由緒寺院を”後付けで建立”することは本来容易ではない。
ただ土地を用意し、堂宇を造営しても周囲を納得させることはできない。
その土地を、十分に歴史あるものとして意味付けできる伝承や寺宝物が
必要不可欠なのである。
そのことを考えるうえでヒントになるであろう及川祥平氏の言葉を引用したい。
「空間は空間であることによってのみ、特異化されるわけではない。
人の体験や知見と関わる各種のモノに占められていることによって、空間は
空間としての用途を果たし、また、『場所』としての意味を帯びる」
及川祥平『心霊スポット考 現代における怪異譚の実態』アーツアンドクラフツ(二〇二三)128p.
福専寺を常敬寺として成立させるには唯善の寺という「情報」を根付かせることが必要不可欠で、最重要課題となる。
そして仏像に与えられた「呪い」という要素は、その情報を際立たせるためのスパイスとして作用するだろう。
一時期世間を騒がした所謂「迷惑系インフルエンサー」の例からも分かるように、人々の注目を引こうとすると、スパイスは過激になる。
このことを仏像の縁起に置き換えれば、それが呪い(呪術)や恨みという表現になろう。
福専寺を常敬寺と改名させた寂如は、こうしたスパイスで人々の目を引き、
唯善という「情報」を語り継がせたかったのだろう。
そうすることで、福専寺は唯善の寺、つまり常敬寺として語られるように
なるからである。
しかしながら、私はこの「語り継ぐ」という行動が情報を対象に蓄積させ、
そして怪談化させていく大きな要因であると考えているので、唯善の子孫として危機感を抱いているわけである。
呪いといった強いスパイスを使った副作用とでもいおうか。
出来上がった情報が、現代のオカルトというジャンルに非常にひっぱられやすくなってしまった。
だが、こうした事実と異なる唯善像が形成されていく様子を傍観していられる立ち位置に、私はいない。「自分事」の大事だ。
こちらも後述するが、唯善が誰かを呪うということはその生涯を通して眺めると、考えられないし、唯善のイエとして続く上越市の常敬寺や、その一門(中戸山一門)に、唯善をまるで怨霊のようにみる文書類も存在していない。
しかしながら、それではなぜ千葉県野田市の常敬寺の阿弥陀如来坐像に、「唯善の呪い」を聞き手に想起させるような語り口の伝承が付与されたのか。
この最初の種本からして、荒唐無稽でおかしなことである。
何度も言う形となり申し訳ないが、唯善とは関係がない寺院なのである。
本来、そのような伝承を所蔵する寺宝に与える必要はないはずだ。
だが、福専寺を常敬寺としたい寂如としては、それでは困ってしまうのであろう。
西本願寺として欲しい常敬寺とは、単なる同名の寺院ではなく、親鸞の孫である「唯善の寺」の常敬寺でなければならなかった。
跡地という土地こそ一致していても、それだけでは「説得力」が足りないのである。
つまり、このお寺は唯善が創建したという「歴史」を寂如は求めたのである。
その歴史をどうするか。どうするかというのは、どう作り出すかということである。
元々は福専寺という報恩寺の末寺を、どうすれば唯善の寺にできるか。
そのために活用されたのが、寺院略縁起のみならず寺宝をはじめとする
寺院を形成する諸財産に対し、「唯善の歴史」という「情報」を与える
ことであったと私は考える。
言い換えれば寺伝を「強調」することで、与えられた歴史に厚みを持たせようとしたのだろう。
そして寂如はこの動きを数百年先にわたる長期計画として考えていたと思われる。情報をたくさん「植え」ることで唯善の寺という情報の森林を、時間をかけて育てていく計画ではなかったか。
実際、福専寺の寺伝が常敬寺のものに変更された当初は、誰も真に受けなかったであろう。
それはそうである。
一七〇〇年頃に寺宝に与えられたであろう唯善の情報は、一七〇〇年当時は出来立ての赤ちゃんであり、周囲も信用しないはずだ。
だが、それが五十年、百年、二百年と経てばどうであろうか。当時を知る人はみな亡くなり、一七〇〇年頃に与えられた情報だけが存在し続けることになる。
唯善の寺があった元々の土地に、「唯善の歴史」を語る寺院が建つことになる。
時間が経てば経つほど、たとえ作られたものであったとしても、そういった寺社伝承、「寺記」は大きな説得力をもって人々に受け入れられるのではなかろうか。
事実、ムー編集部は「唯善と野田市の常敬寺が無関係である点については知らなかった」ことをやり取りの中で私は理解したし、そしてどうも野田市周辺では、「新潟県にある常敬寺は野田市常敬寺の分寺である」という話になっているらしいのだ。
というのも、そのようなことを口にして関東から当山に参拝する人々が複数いるからである。
これはまったく驚くべきことであり、対応に辟易している。
寂如の目的は、まさしく歴史を曲げることにあり、歴史の捏造や改竄なのである。
そして信じがたくも、それはほぼ達成してしまっていたといえるだろう。
(この結果には、私たちが由緒の歴史にあぐらを掻き、特段なんの情報発信もしてこなかったという面もあるだろう)
当山所蔵の「善流住職文書」も、当然こうした寂如の動きを危惧して書かれたと想像する。
「跡地に建った福専寺が常敬寺に寺号改めした」
と経緯を記録し、未来の常敬寺(上越市)寺族へと残した、託したと私は理解している。
そして「唯善の呪い」は、福専寺を唯善の寺である常敬寺へと変更するために付与された寺社伝承の一つであると思われる。
それでは、なぜ付与された唯善の情報が「呪い」というおどろおどろしいスパイスなのであろうか。
親鸞の孫なのだから、そうした血縁関係から褒め称えて、顕彰したほうが寺の伝承としてはふさわしいのではないのか。
次は、その点について改めて考えていきたい。
六、本願寺から見た「唯善像」の反映
今まで見てきたように、野田市常敬寺の成立には西本願寺寂如の意向が濃く反映されている。
野田市常敬寺の報恩講では、餅(お華束)を「蓮如上人と寂如上人」
にも供えるという。(8)
【8:野田市史編さん委員会
『二川・関宿地区の民俗』(二〇一七) 166p.】
蓮如は西光院に対し、常敬寺の寺号を与えた人物であり、
寂如は福専寺を常敬寺へと改名させた人物である。
このような儀礼からも、寂如がいわば傀儡寺院として設置させた歴史が
見て取れるだろう。
となると、そうした西本願寺が強い影響力を有する寺院における唯善のイメージは一体、どんなものになるだろうか。
そう、当然、本願寺(本願寺史観)から見た唯善という人物がそこに
表現されることになる。
私たち唯善の子孫からすれば、二節で触れたように、唯善は幕府と天皇からの支援、庇護を受け、西光院という大坊の主となった人物として映る。
つまり、唯善を徳のある高僧とみているのである。
それは上越市常敬寺のみならず、その影響下にあった末寺群、中戸山一門(9)に共通する歴史認識である。
【9:中戸山一門の研究については、本多得爾「中戸山常敬寺の信越進出について」『須高』第二十四号 須高郷土史研究会(一九八七)がある】
しかし、唯善と対立していた覚如の子孫である本願寺寂如や、本願寺教団が抱く唯善へのイメージは私たちとはイコールではない。
本願寺史観から唯善をみると、個人や、親鸞の子孫としての尊敬よりも、むしろ自分たちの政敵という印象で伝承されていくことになる。
つまり、唯善は「覚如と対立した悪僧」だという見方である。(10)
【10:最近でも同種の主張は、本願寺派僧侶である井上見淳 『真宗悪人伝』法蔵館(二〇二一)で展開される】
「その悪僧は敗れ、京都から東国へと逃亡した。そんな唯善は、夜な夜な自分を打ち負かした覚如を恨んでいたに違いない」……
という発想がまず寂如、本願寺側にあって、仏像の縁起に組み込まれたとみられる。
直接的に描写せずとも、である。
「唯善」、「古い呪術」といった単語を用意すれば事足りる。
あとは受け手がイメージを膨らませてくれる。
むしろ自分たちは多くを語らず、想起してもらったほうが、受け手の
衝撃、印象が強くなるだろう。
「自分で気付いた」という思いは、視野を狭めさせるが、本人に確固たる自信をもたらす。
そうした強い刺激を受けた人たちは、もう放っておいても勝手に語りだす。
思考の誘導とでもいおうか。
そのことは『須高』第十三号の例でも感じられるだろう。
つまり、ここで波紋の様に語られていく唯善像は史実の再現ではなく、本願寺側のイメージが膨らんでいく仕組みになっている。
そうであるから、本願寺史観から唯善を眺めた場合の感想である「恨み」や「呪い」という単語で構成される縁起が作りだされていったと考えられる。
繰り返しになるが、私たち唯善の子孫からはまずそのような「悪僧唯善」の発想自体がでてこない。
だから、上越市常敬寺にはそのような歴史を語る縁起や寺宝物は存在していないわけである。
『須高』第十三号では、野田市常敬寺の阿弥陀如来坐像の天の逆手の印相が
『古事記』や『伊勢物語』にもみられる呪術であると考察しているが、
私は、これは「逆」であろうと思う。
阿弥陀如来坐像に「呪い」という伝承を持たせるにはどうすれば
いいかという考えが先ずあっただろう。
そして、一目見て異様さが伝わるように、つまり視覚的にその呪いを表現するために、仏像の印相に着目し、そこから逆算的に、『古事記』等の描写に行きついた可能性があるのではないか。
呪いを表す印相を探して、それを当てはめていくやり方で、阿弥陀如来坐像の伝承を作ったと思う。
要するに、「唯善の寺」としてのプロモーションの一環で用意された伝承だと私は考える。
そしてそのプロモーションの効果を増すために刺激の強い「呪い」といった
スパイスが使用され、その結果、オカルト的な要素を含むこととなり、徐々に怪談化しつつあるというのが現状ではないだろうか。
七、「鼻取太子」の伝承
一方で、唯善のイエである上越市常敬寺に関する伝承を一つ例として挙げ、
怪談化する寺社伝承と、そうではないものの違いについて考えていきたい。
本節で取り上げるのは、長野県高山村に今も伝わる「鼻取太子」の伝承である。
これは、下総国から信濃国に避難してきた若き常敬寺住職、了照の時代にまつわる話である。
なお、了照は唯善からみて第十二代目の子孫にあたり、まさしく「唯善の寺」が語る奇譚となっている。
鼻取太子の伝承の概要は次の通りである。
「戦禍から逃れるため、下総国から常敬寺の一団が聖徳太子立像を担いで信濃国まで避難してきた。
その常敬寺の太子像を篤く信仰していた老夫婦は、人手不足から田植えが予定通り出来なくなってしまう。
これでは収穫に間に合わずに大変なことになってしまうと気を揉んでいたところ、どこからともなく童子が現れて鼻取の仕事を手伝ってくれた。
そうして無事に田植えを終えることができた翁が礼を言おうとすると、いつの間にか童子は忽然と姿を消してしまった。
不思議に思いつつ帰路に着いた翁が太子像を見ると、なんと腰から下が泥だらけであった。
そうか、太子さまが鼻取をしてくださったんだと翁は深く感謝した」(11)
【11:著者による要約。全文掲載されている略縁起は上越市常敬寺にて配布。または、釋唯真『常敬寺のあゆみ 下総国~信濃国~越後国』(二〇二三)に掲載】
「鼻取地蔵」等、類似した伝承が各地域にみられ、恐らく真宗の太子信仰とそれらが結びついたものであろう。
この伝承は親しみをもって現在も地域内で語り継がれている。(12)
【12:高橋忠治『信州の民話伝説集成 北信編』一草舎出版(二〇〇五)、
『館報たかやま』第116号(一九六七)等にも掲載されている】
私は前節で「語り継ぐ」ことが怪談化する一つの要因になり得ると書いた。
しかし、この唯善の寺に関する寺社伝承は、田植えをしたと伝わる地にその旨を示すように碑も建っているが、まったくその予兆は見られない。
これは添加されている話のスパイスが、「呪い」といった刺激の強いもの(非日常)ではなく、「田植え」といった、庶民の日常の生活にあるものだからだろう。
自分たちにとって得体が知れないもの、触れ得ないもの、つまり呪術のようなものは、尾ひれはひれがついて話が膨らんでいきやすい。そこに怪談化に至る道程が現れる。
しかし、田植えといった自分たちにとって馴染み深いものであれば、誤った情報はその都度修正されるし、伝承がコントロールを失って伝播していく可能性も低くなる。
さらにこの伝承は、篤信の老夫婦の話であり、「信仰」が軸となって語られることでも話の怪談化が防がれていると考えられる。「茶化せない」わけだ。
つまり、怪談化する/しない(させる/させない)というのは、情報の受け手の判断に委ねられている部分が大きい。
田植えだったり、自分の地元の話である等、馴染みを覚える物語では、怪談として受け取るのではなく、親しみをもってその物語を語り継ごうと人は動く。
怪談というのは「怪しい話」であるが、馴染みを覚えるという時点で、それは「怪しくない」のであり、怪談化されないのである。
逆を言えば、人々が対象に関心を無くせばそれはいつでも怪談化し得るということでもある。
鼻取太子の場合、語り継ぐことによって怪談化が防がれているとみるべきかもしれない。
八、結びに
怪談化という方向性から、私は本稿で、天の逆手の「阿弥陀如来坐像」と
「鼻取太子」の伝承を比較し、それぞれの特徴についてみてきた。
『須高』や『ムー』に引かれるような「唯善の呪い」のもとを辿ると、そこに本願寺寂如による目論見の残滓を感じるとともに、東西本願寺同士の勢力争いの歴史があったことを思い知る。
怪談の意を「怪しい話」とすれば、寺社伝承が怪談化する条件の根幹には、
「人々の対象への無関心や無知」があるのだろう。
よく分からないから、よく分からないままに、つまり怪しいまま、人々に受容され、怪しいままに広がっていく。無知ゆえに面白がり、誇張されていく。
怪しいままにされた寺社伝承は、いつ怪談化してもおかしくはない。
これを防ぐには、「鼻取太子」の一例で示したように、対象へ関心を持ち続けることが最も効果的であろう。
常敬寺や地域の歴史を知れば、あるいは浄土真宗の教義を知れば、「唯善の呪い」なんてそんなことあるかなと、ストッパーが働く。
本願寺、常敬寺。親鸞、覚如、唯善。本願寺史(真宗史)、郷土史、日本史、世界史。宗教、芸術、文学、科学。
気になることに興味関心を抱き、問いを持って対象と対話する。
よく考えて、よく学んで。笑顔を忘れてはいけない。
好奇心と敬意のこころで人生をあゆむ。人生の楽しい日々は、君を怪しくしない。
怪しいままを怪しいままにしないことで、寺社伝承や、数々の「噂話」が怪談化するのを私たちは防ぐことが出来る。
話は勝手に怪談化しない。
必ず、そこには怪談化させる「人々」の存在がある。その
その昔、「雀合戦」という「怪異」があり、主に江戸で報告されたという。
これは雀が一か所に集まる様子がまるで合戦のようであったことから命名されたもので、なんらかの不穏な予兆とも噂された。
この雀合戦に対する指摘を紹介し、本稿を終えようと思う。
「雀の集団行動そのものは一般的な習性であるから、当然ながらその後も大きな群れを作ることはあった。
雀の群れを見て『合戦』を想起するか否かは、おそらく見る側の意識と深く関わっていた」
村上紀夫『怪異と妖怪のメディア史 情報社会としての近世』創元社(二〇二三)144p.
不可思議(オカルト)を食み、現実を生きるのであって、現実を食み、不可思議(オカルト)に生きてはならない。
・参考文献
池田嘉一 ・渡辺慶一『続じょうえつ市の郷土史散歩 』北越出版(一九八一)
今井雅晴「性信坊関係史料(続)」『茨城大学人文学部紀要』第二十号 (一九八七)
及川祥平『心霊スポット考 現代における怪異譚の実態』アーツアンドクラフツ(二〇二三)
及川祥平編『現代の怪異あるいは怪異の現代 現代怪異研究小論集』アーツアンドクラフツ(二〇二四)
大場厚順「高田常敬寺について 改派に関連して」『頚城文化四五号』(一九八八)
草野顕之『「口伝鈔」史考』 東本願寺出版(二〇二四)
草野顕之『本願寺の軌跡―創建から東西分派、そして現代へ』東本願寺出版(二〇二一)
佐藤正英『歎異抄論註』青土社 (一九九二)
塩谷菊美『真宗寺院由緒書と親鸞伝 』法蔵館(二〇〇四)
須高郷土史研究会「史料紹介― 関東真宗寺院史料」『須高』第十三号(一九八一)
上越市史編さん委員会編『上越市史 通史編4 近世二』二〇〇四
高山村誌編纂委員会『信州高山村誌 第二巻 歴史編』(二〇〇五)
高山村誌編纂委員会『信州高山村誌 第三巻 地誌編』(二〇〇六)
知切光歳 『親鸞の寺々』春秋社(一九七三)
堤邦彦『江戸の高僧伝説』三弥井書店(二〇〇八)
同朋大学佛教文化研究所 『真宗初期遺跡寺院資料の研究』 (一九八六)
野田市史編さん委員会『二川・関宿地区の民俗』(二〇一七)
廣田龍平『ネット怪談の民俗学』早川書房(二〇二四)
藤井哲雄『本願寺の草創―覚信尼と覚如上人』中山書房仏書林 (二〇二〇)
細川行信編『 真宗史料集成 第八巻 寺誌・遺跡』同朋舎 (一九八三)
峰岸純夫「鎌倉時代東国の真宗門徒―真仏報恩板碑を中心に」
『中世仏教と真宗:北西弘先生還暦記念 』吉川弘文館 (一九八五)
村上紀夫『怪異と妖怪のメディア史 情報社会としての近世』創元社(二〇二三)
吉田悠軌「怪談『裏拍手』と古神道の呪術」『ムー』二〇二四年九月号/No.526(二〇二四)
自著
釋唯真『常敬寺のあゆみ 下総~信濃~越後』(二〇二三)
寺院所蔵文書
「善流住職文書」(新潟県上越市 中戸山 西光院 常敬寺所蔵)