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インド占星術と悟り

なぜ私がインド占星術と悟りについて書いているのか。
出生チャートとこれまでの流れが見事に一致していること、
私が生きてきた中で、
自然の流れで経験してきたありとあらゆる出来事、
自然にスピリチュアルに出会い、
自然の流れでインド占星術と出会い、
意図せずも自然に一瞥体験が起こり、ここには果てしない安堵の中で解放しかないことに何かが崩れ落ちた。

インド占星術に出会ったことで、スピリチュアルは興味の対象外となり、一瞥体験をしたことでインド占星術が人生の地図であることを確信した。

自我によって振り回されることで、とてつもなく人生をつらいものにする。
放擲という絶望のようなことが、最も幸せへの近道だった。


起こることに葛藤を持つことは、自我があるがゆえのもの。
しかし人生には「放擲」しかない。
自我とは関係なく、自然に起きてくることと自己の「完全なる一致」しかなく、「人はただ生きているに過ぎない」という共通項を見出してしまった。

起きることは起きる、起きないことは起きない。
望んでいようと望まないことであろうと。

悟りって、「放擲」しかないとあきらめるに至ること。
ガラガラと崩れ落ちる自我。
自我の無力さ。

「放擲する」ではなく、すでに放擲しているってこと。
している自覚もなく。

なんの術もない。

なんの術もない人生に絶望して、何等か手を打とうとするのが人だけど、それをするから苦しい。

なんの方法もなく、起きることは起きるし、起きないことは起きない。
人生は勝手に流れていく。
その流れていく様が、出生チャートに見事に現れる。
そのプログラミングされた出生チャートを解読していくのがインド占星術。


私がインド占星術に出会ったのは土星期の後半。
それまで、まあしんどい日々を送ってました。
人間が生きてるって、どうあがいても「現実」でしかないんですよね。

苦しい出来事が起こるのも起こしたくて起こしたわけではないし、起きてほしいことも起こそうとして起こるものでもない。
スピリチュアルに傾倒している時は「起こそう」としているんですよね。
これ、現実に葛藤している、現実と戦っているってこと。

他人とも自分とも戦わない。

そんな幸せの理想を追い求めても、生きているこの現実が幸せかの方がよっぽど人間には重要で。推しと付き合いたい、結婚したいと願っても、現実のパートナーの方が空想ではなく幸せなのと同じで。






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