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世の中の仕組みを知ると、悩みが消える


世の中の仕組みがわかる体験

私たちが生きている世界は3次元です。
3次元は点・線・奥行(タテ・ヨコ・高さ)を認識できる世界です。
実際はわざわざ立方体のようなものを感じて生きているわけではないですが、私たちが認識できるものはその3点です。
それ以上のものは残念ながら、どう頑張っても認識することはできません。
そしてあらゆるものに名称をつけて、私たちは区別をしています。

ただ、その認識以上の体験が起こることが稀にあります。
まるでディズニーランドのアトラクション、スターツアーズのライトスピードで体感するような無限の広がりがどんどん増長していくさま。
例えればそれに似た体験が日常の中でふと起こることがあります。そこにはあらゆるすべてと一体化した幸福感、絶対的安心感で満たされています。
それが一瞥体験です。

タテ・ヨコ・高さの世界を外れるということは、認識や意識との境がなくあらゆるすべてと一体化している、名前などを用いた区別のないことをここでは指しています。

それこそが私たちが求めてやまないもので、在るにもかかわらず認識できないものです。

もう少しわかりやすく言うと、バーチャルリアリティーが体験できるゴーグルをつけていることを想像してみてください。
その時に見える世界が、ただただ無限にどこまでも何もない白い世界がどんどん広がり、それと同時に「絶対的安心感」=幸せ感が増長し続けると想像してみてください。
「絶対的安心感」を感じる時、人は自然と涙があふれてきます。

ですが、実際には人はそのような体験は日常的にできません。
どこまでも広がる「絶対的安心感=絶対的幸福感」と意識が分離されているからです。
タテ・ヨコ・高さだけの世界に意識があるからです。

一瞥体験から日常に戻った時、意識ののぼらない時には無限の安心感が本当は存在していることがわかります。
知識ではなく、体験を通じてあとからわかることです。わかるというのは、体験後に意識によって付け加えられたものです。
この世界は、絶対的安心感という無限の、何もない無が無限にあるだけだとわかります。

誰もが「絶対的安心感」を求めている

「絶対的安心感」といっても、それがなにを指しているのかさえ人は理解することができません。
安心感て、愛されている時に感じるものだと思います。
愛されるって、なにも異性間だけのことでありません。親子や兄弟もそうですし、気心の知れた友達や仲間、満足に繋がるものにはすべて安心感という愛があります。
しかし、愛されているだけでは人は完全な満足(無意識)はできません。
自分自身も愛がないと、不足感(を感じる意識)が沸き起こります。

自分には何か足りない という感覚を誰もがどこかに持っています。
その不足感を埋めるために、人は様々なものを得ようとします。
お金かもしれません。贅沢な食事やモノ、旅行や承認欲求を満たすことかもしれません。
しかし、いくら得てもまた次の何かを求めます。一時的に自己満足をしても完全な満足には至らないからです。
その欲求は次から次へと現れて、終わりがありません。

なぜなら、すべてがどこまでも広がる それこそがこの世の仕組みだからです。意識が向いたものは意識が消えたときにそれは終わります。
甘いものが食べたいという意識が働いた時、それは甘いものを食べた時か他に意識が向かった時に終わります。
ただそれ以前に、認識できない終わりのない無限の無が存在しています。

完全な満足を人は求めています。
完全な満足とは、何も不足がないという安心感であり何も意識にのぼらないこととも言えます。

・本当にうれしい(楽しい)瞬間
・本当に悲しい瞬間
・本当に怒る(悔しい)瞬間
・本当に苦しい瞬間

何かと完全一体化している時に人は自然と涙がでることがあります。
意識して何かをどうにかしている時ではなく、本当に嬉しい時、本当に悲しい時、本当に悔しい時、本当に苦しい時。
涙って出ませんか?
感情そのものと一体化する(=それしかない)、自他との差がないから起こります。嬉しいのはただ嬉しいからです。差はどこにもありません。
完璧に嬉しがりながら、完璧に怒れる人はいません。

好きなアーティストのライブでの一体感、心動かされるドラマの感動的なシーン 、大迫力のオーケストラや大晦日に聞く第九、そんな涙があふれるシーンは日常でもあります。涙が出るというのは満ち足りた瞬間なのです。


世の中を真理を体験すると、悩むことができなくなる

一瞥体験やら絶対的安心感・・それを体験したからといって、いったいどうしたというのでしょう。
どうもしないし、劇的な人生の変化は何も起こりません。

起こるのは、絶望という名の完全な自己受容(自己愛)です。

そして、この世界は何もかもが、同じ仕組みでできていることがわかります。フラクタルなのです。大と小が同じ仕組みで成り立っています。

無しかない無限の中で、意識を持つ私たちが生きている。
ただ、その仕組みは同じであるということ。

意識を外れたところに無限の絶対的安心感が隠れています。
何かを欲しいと意識したものは、それがないことが苦しみにもなります。

私たちの意識は個人の人生ストーリーを作りあげます。
しかし、そのストーリーは本当に真実なのでしょうか。

〇〇があれば幸せになれる
そういった勝手に作られたストーリー(意識)が絶対的安心感(無意識)から遠ざけます。
逆に言えば、意識しないことが幸せだともいえます。
起きていることに抵抗をしないことが幸せだということです。

どんなに意識しても、無意識には勝りません。

人生はなるようになります。
起こることが起こるし、起きないことは起こせません。

ガラガラと希望が崩れ去り、脱力しきった時にふと、苦しみからの解放という本当の幸せが訪れます。
悩んでも求めても起こることに任せる以外はありません。
悩むことはほぼほぼ意味がありません。
何かを意識で起こせる人はどこにもいません。
出来事の意味は人間の意識が考えた自分に都合の良いストーリーによって作られているので、意識がほぼ無力とわかれば悩みは作られません。
悩みが消えるというよりも、すべてを委ねると悩めなくなります。

無意識95%、意識5%くらいの割合なのですから、無意識にどう勝つつもりですか?
もう悩むのはやめましょう。






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