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悟りに瞑想もありのままも必要ありません
悟りは実はとても簡単なこと
「悟り」って書くと、
・自分には遠い存在で無関係なもの
・宗教的なもの
・高尚な人が辿り着くところ
・修行をして辿り着くところ
といった、宗教的なものと思い込んでいる人が大多数なのではないかと思います。
その場を求めて瞑想をしたり、一生をかけてインドに悟りを開きに行く人もいるくらいですから、どこか宗教的なイメージがあることは否めないのですが、実際はまったくそんなことではありません。
逆にたどり着こうとしていることこそ遠回りになっています。
悟りと今を別物と認識しているからです。
実は誰もが今まさに悟っている、それそのものです。
あまりに一体化されていて、気づかないだけです。
・・もう見えなさ過ぎて本当にチンプンカンプンです。
それは思い込みが強すぎて他を受け入れられない ことと同様です。
自分にはたどり着けない場所 といった誤った認識が「悟り」を見えなくしています。とはいえ、「悟り」そのものは本当は存在しないし、そのような特別な場所もありませんが・・。
ごくごく当たり前に日常的に一体化しているので、別物と思い込んでいるとチンプンカンプンと化するのです。
いわば空気と同じです。
空気がそこにありますと言っても、誰も見えない。けれど地球にいれば常にそこにあるのが空気です。それと同じで当たり前すぎてわからないものがいわゆる「悟り」です。
「ありのままでいましょう」も「瞑想」も必要ありません
世の中のもので、存在していること(モノ)は私たちは認識できます。
量子力学的にも認識したものが存在する といった方が正しいのかもしれません。
ほとんどの人が悟りが今と別のところにあると思い込んでいるのですが、すでに誰もが悟ってしまっています。
悟っているわけではなく、悟りそのものです。
悟りという言葉すらないそのものです。
悟りというのは「そのまま」のことを指します。
何かと何かを分別したり、ジャッジしたり認識することではありません。
あくびが出たなら、あくびが出た、というそのままのこと。
当たり前に誰もが毎瞬毎瞬そのままであるはずです。
「ありのままでいましょう」といった流行り言葉のようなものは一切必要ありません。
なぜなら、何かしようとしなくても、人は何かしてしまうし考えてしまうからです。
ありのままってそういうことではありませんか?
眠いときに眠いと感じること、イヤなものはイヤであること、好きなものはどうしても好きであること
それ以外その瞬間はありません。主体客体のないそれそのものです。
眠いことにも好き嫌いにも、瞑想は必要ないですよね。
すでにありのままです。
嫌いなことを好きになろうとする意識、ないと思っていることを得ようとする意識 それがありのままから離れた意識が働いている状態です。
嫌いなことをなくす、ないものを得ようとするために瞑想したり、自己啓発セミナーに通ったり、願掛けをしたり。
その行動すらありのままといえばありのままですが、意識に上ることにありのままはありません。
ありのままのものに後から意味付けをしたものが意識ですが、人は意識づけをする前に自動的に何かを思い、自動的に手段を考え、自動的に行動を起こしたりやめたりします。
「私」の正体
あなたはどこにいますか?
体は確かにあります。それは間違いありません。
「私」は体なのでしょうか。
私が体だとすると、「「私の」頭」と言っている「私」はどこにいますか?
頭が自分のものだと言っているその人はどこにいますか?
頭を認識している別人がいますよね。
私が体なのだとすると、私の頭とは言いませんよね。
頭=私
頭が痛いときは「私が痛い」でよくないですか?
体の各部位も同じです。
体が痛い時、仮に筋肉痛の時は「私が痛い」でもいいわけです。
筋肉痛を認識している別人がいるから、筋肉痛だとわかるわけですよね。
だとすると、筋肉(体)は私ではありませんよね。
体が私と思い込んでいると屁理屈に聞こえるのですが、どうあがいても事実です。
「私」がどこにいるのかわからないのは、「私」は存在しないからです。
「私」は存在するものではなく、認識する側の主体としての「私」でもなく、認識される側の客体でもなく、すべてと一体化したそれそのものです。
一体化しているものは見えることはないのですが、一体化されていると「私」は安心感を覚えます。
だから我が家に帰ってきた時安心するのです。
母親の体内にいた子供は、母親こそが一番安心感を感じる場所です。
客体という緊張感のないところ=認識のないところ に一番安心感を感じるということです。
「私」は「私の不在=意識・認識していない」ことこそ安心感であり、私の本来の居場所ということです。そこでは不安は起こりません。
人間には本来の私ではない自我があるのですが、自我とは認識です。
私がいる、誰かがいる、何かが食べたいなどの思考です。
しかし、いつ何度気も私がいる、誰かがいる、何かが食べたいなど人は思っていないはずです。
もともと自我のないところに、自我が付け加えられているわけです。
そのもともとこそ、私。
それはもはや「私」などの名称はありませんが・・。