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檸檬の度忘れ

月に数度の出社日に、まあまあ長い時間をかけて電車で移動する。

読書をしたり、スマホと友達になっていたり、車窓をぼんやりと眺めながら考え事をしたりすることが多い。企業の看板から昔勤めていた会社のことを思い出すとか、行き交う人波から過去の記憶が甦ってくることもあり、とりとめなく色々なことが連想されてくる。

とある書店の看板を見ると必ず思い出す作品がある。私はこの作品が好きで、大学で近代文学の講義を取っていた時にレポートの題材にしたこともあり、これまでに何度も何度も読み返してきた。書棚にレモンを置く場面を思い浮かべてみたことも数えきれないほど。忘れもしない大好きな作品「檸檬」。しかしあろうことかこの作者名を、度忘れしてしまった。

あり得ないわー。と自分で自分にツッコミを入れた。電車の中、マスクをしていたからいいもののどんな表情をしていたのだろう。とにかく思い出さないと気持ちが悪い。散らばった書類をかき集めるように必死で記憶をフル稼働させた。萩原朔太郎、木下杢太郎といった5文字名前の詩人の名が浮かぶが違うそうじゃない。高村光太郎は「レモン哀歌」のほうだ。挙句の果てには頭の中で「あの日のかなーしみーさえー」と歌が流れ始めた。レモン違いである。

こういう時(絶対にわかりきっていて度忘れした場合)、手元のスマホでググってしまうと敗北感しか生まれないので、どうしても自力で思い出したいのだ。悶々としたまま電車を降りてエスカレーターを上り、途中でお茶を買って会社に向かうスクランブル交差点の真ん中まで来た時だった。

あ、梶井基次郎。

ふっと降りてきたように思い出した。何でこんな事を忘れるかなぁ、というほど自分の中では常識中の常識だったわけで、己の脳の老化に慄きつつあきれ果てた次第。

それにしても何かを必死で思い出そうとする時って、思い出す対象そのものよりもその周辺にあるワードばかりが浮かぶんだなあ、と。科学的なことは全くわからないけれど。でも度忘れしたものを思い出す作業、急を要していなければ割と嫌いじゃない。「そうそうそうだった!」と安堵し喜ぶ以上に、思い出すことで出てくるものを今度は深掘りしたくなったりするから。

とりあえずそうやって、老化に抗ってみようか。

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