私の「あれから10年」-人生ちょっと変わりました-
東日本大震災の発生当時、私は20代で福祉作業所の利用者でした。その頃の私はというと、その作業所を、『ついの住処』と決めて、職員からの「就職しないの?」という言葉に断りを入れながら作業所を利用していました。
そんなときに起きた、あの大きな地震。そして、大きな津波、失われた沢山の生命……。
「人生、いつ終わる(死ぬ)か分からない」。そう強く思いました。
当時、私には好きな人がいました。その人は作業所の職員でした。10年経った今でも、「あの人が今までの人生の中で一番好き」と言えるくらい好きな人でしたが、私は利用者、相手は職員。恋愛対象として見てもらえませんでした。
季節が巡って秋になった頃、ひょんなきっかけから、「やっぱりあの人のこと、告白してフラれても、それでも諦められない!」と思うようになります。
そのとき、私は10代の頃に諦めた、『就職』にもう1度チャレンジしてみよう。と思いました。年齢的にもまだギリギリ間に合いそうだったこと、何より、『就職して社会人としてがんばれば、好きな人に1人の女性として見てもらえるかもしれない』と思ったのが理由でした。
就活リベンジをすると決めた私は、担当の職員を頼り、短期の職業訓練に通った後、就労支援機関を紹介してもらいました。
就労支援機関にいた担当者の方が、たまたま私の自宅近くにある大企業の系列と関係があるとのことで、働けそうな会社を順次当たっていただいたところ、「うちを受けに来ませんか?」とグループ企業の1つからオファーをいただきました。
「週4日程度で働きたい」と希望を出していたため、「軽作業か何かだろうな」と思いつつ、企業紹介(実質一次面接)を受けてみると、なんと週5フルタイム勤務の初任給が一般枠高卒並みのボーナス付き!!
「えー!週4日勤務希望って伝えてたのにー!?」とか、「お給料高すぎぃー?!」とか思いながら、相手の会社まで来て、「週4日希望なんですけど……」とは今更言えなかったので、「ボーナスもらえるからまあいいか。そもそもこんないい条件で受かるわけないよ!!記念受験だ!!」と開き直って受けました。
開き直ったのが良かったのか、まさかの採用となり、『ついの住処』と決めた福祉作業所を退所しました。東日本大震災から2年足らずの2012年12月のことでした。
ちなみに、片想いの結果ですが、『就職して社会人としてがんばれば、好きな人に1人の女性として見てもらえるかもしれない』という私の目論見は見事に外れ、好きな人にとっての私は、(元)利用者のままでした。
直接的な理由は片想いで、その夢も叶いませんでしたが、『人生1度きりなので思い切りやってみよう』という、東日本大震災で感じたものがなければ、就職を選ぶこともなかったと思います。
さらに時が8年ほど流れた今ですが、その会社を1年後に退職するつもりでいます。
東日本大震災の被害とは比べものにならないくらいマシだと思いますが、会社の環境が辛くなり、「あの高い給料の条件は私にはやっぱり無理だったよ……」となってしまいました。
また、当時、会社を紹介してくれた就労支援機関の担当者はいないのはもちろんのこと、合併したので会社名が変わりました、部署の解散も1度経験し、入社当時の上司や先輩方は誰も近くにはいません、私の採用に尽力してくださった人事の方も退職や異動で今も採用業務に関わっている人はいません。
上記のように当時の関係者が誰も(近くに)残っていないことも退職を決意できた要因の1つだと思います。
10年前、未熟で担当の職員によく怒られていた私ですが、今も今で上司によく怒られています。
それでも就職・勤続と乗り越えて少しは成長できた……と感じています。
あれから10年経った私が現在抱く夢は、『障害者や車椅子に対する世の中の理解を深めたい』ということです。
今日職場に置いてあると思っていた、来年度の契約書が見当たらなかったので、まだ会社に退職の意思は伝えられていませんが、次のステージへ、新たな変化へ、進んでいきたいと思っています。