大入島・石間浦の「彦神社」。
私たちは、永い命のリレーの上にいる。
しかし、なぜ、このような今があるのかを知りたくても、全容はいつも掴めない。
ここは、佐伯市の大入島「石間浦」地区。
彦神社を訪ねた。
鳥居や社殿には、「彦宮三柱神社」とある。
通称で彦神社ということか。
この神社の由緒を佐伯市誌に探したが、見当たらない。ただ、市誌に一字違いの神社を見つけた。
「彦宮三所神社」という神社で、西上浦・宮ノ内地区にある。こちらも通称は彦神社である。
インターネットで検索すると、興味深い研究レポートが公開されていた。公開日は不明で、数十年前のものと思われる。筆者は、大入島の住民のT.Sさん。
タイトルは次の通り。
『石間浦「彦神社」と宮の内「彦神社」・彦嶽 神社との関わり』
彦神社の「彦」は、彦岳の「彦」と関わるというもの。
研究レポートを読み進めると、宮ノ内「彦神社」の棟札には、こう書かれていたという。
・彦岳の神様は、福岡県豊前の「英彦山」の神が影向(ようごう)したもの。
・同じく、彦岳の眼下にある小島にも影向しており、そのため彦島と呼んだ。
つまり、英彦山の神様が、山と島に降臨したという。
そして、さらにこうある。
「この神様が、海で生活をする漁人たちの舟をたびたび転覆させ、困らせていた。」これを鎮めるために、漁師たちが浦の高いところに遷し、彦宮三所大権現として崇め尊んだ。
なるほど、彦岳山頂でもなく、地続きでない彦島でもなく、民家の近くに彦神社を建てたということか。
彦岳は豊前の英彦山と同様に、鎌倉時代には修験者の立ち入る霊山であったという。しかし、社殿が建てられたのは、明治11年になってから。それまでは石の祠であった。
車も、車道も無い時代。彦岳を見上げ崇めながらも、信仰を寄せる現場は、住家に近い神社であったことを想像する。さすがに登山は大変。
ちなみに、「彦」は日の子という意味。
「日子」=ひこ
日とは、天照大神。その子は天忍穂耳命(アメノオシホミミ)。こちらが英彦山の祭神である。
また、英彦山の配神には、伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)が名を連ねる。
一方、宮ノ内と石間浦の祭神はどうか。
◆宮ノ内(西上浦) 彦宮三所神社
・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
・伊耶那岐命(イザナギノミコト)
・伊耶那美命(イザナミノミコト)
◆石間浦(大入島) 彦宮三柱神社
・伊耶那岐命(イザナギノミコト)
・伊耶那美命(イザナミノミコト)
・素戔嗚尊(スサノオノミコト)
なるほど、3つの神様が祀られている。
しかも、宮ノ内については、英彦山と全く同じ。
石間浦の素戔嗚尊に残念を感じましたが、研究レポートには次のように記されている。
明治時代の「神仏分離の影響」を受け、昭和21年の宗教法人の届け出の際に、天忍穂耳命が素戔嗚尊に書き換えられてしまったとのこと。
つまり、石間浦の彦神社も、もともとは宮ノ内(彦岳)とも、英彦山とも、祭神は同じであったことを調べてあげている。
◆石間(大入島) 彦宮三柱神社(当初)
・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
・伊耶那岐命(イザナギノミコト)
・伊耶那美命(イザナミノミコト)
ところで、石間浦の彦神社の創建はいつなのか。
研究レポートの筆者が、石間浦の彦神社 社殿に収められていた棟札を確認していた。
そこには表面『彦神社六百六十参歳奉祝祭當浦繁栄之攸』、裏面に『大正弍年、氏子総代ほか五名と神職加藤福太郎氏』と記されていたという。
六百六十参歳を遡ると、これは建長3年(1251年)に当たるとのこと。
なんとこれは、宮ノ内の彦神社の修繕工事が実施された年でもある。
偶然とは思えない。宮ノ内の修繕と石間浦の新築を合わせて、実施したのではと想像が膨らむ。
では、なぜ石間浦に彦神社を建てる必要があったのか。神様にあやかりたい理由があったはず。それを研究レポートでは、このように推測している。
大入島は、かつて馬の牧場で「前島の馬牧」と言われていた。佐伯氏の時代まで遡ると、軍馬の補給地であったという。
つまり、良質の軍馬が育つことを願い、神社を建てたのではという推測。
民話では、配下の奈須氏に軍馬の補給を命じ、やって来たのは建長3年(1251年)、石間浦に彦神社が建った年であるという。面白い。
研究レポートの最後には、次のようにまとめられている。
①英彦山の神様が、彦岳に降臨。
②彦岳から、彦島にも移る。
③彦島から、宮ノ内の彦神社に遷宮。(1192年?)
④宮ノ内から、石間浦にも勧請。(1251年?)
⑤彦岳山頂に、鎮座。(1661年?)
歴史の歩みは、リレーのようだ。
参考資料
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ss20406.pdf?file_id=3677
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?