豊予要塞、「丹賀砲台園地」。
美しい海が広がる鶴見半島。
ここに戦争の足跡が残ります。
忘れてはならない歴史が佐伯市にもまたあります。
終戦を迎えるまで、軍拡を進めてきた日本。
呉へのルートでもあった豊後水道の防備のため、豊予要塞のひとつとして、
この鶴見丹賀に、1933年(昭和8年)10月に丹賀砲台が完成します。
丹賀砲台には、巡洋戦艦「伊吹」の主砲が転用されました。
(45口径 30センチ 2連装カノン砲)
これについては、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮条約との関わりがあります。
この条約において、「軍艦の保有」が制限されたのです。
持ち分は、米・英・日の軍艦保有率5・5・3とされ、
これにより廃艦となる戦艦の主砲を、陸上での活用に切り替える判断をしたのです。
そして、ここまでご覧いただきました海、この丘の上に、砲台があります。
この入口は当時のものを活用しています。
これは何でしょう?
井戸の中から見上げているような画ですが、
「砲塔井」と呼ばれるまさに砲台が設置されていた部分です。
その上にドーム状の屋根を作って、この戦争遺跡を風雨から守っています。
先ほどの写真は、このドームの屋根でした。
砲塔井には、入口から斜坑を通ります。
リフトでおよそ3分。
階段は162段あり、最大傾斜角度は45度の急階段です。
太ももがパンパンになります。
しかし、当時はここを日常的に昇り降りしていた訳です。
いよいよですが、
この丹賀砲台園地であった忘れてはならない歴史とは、次の通りです。
1941年(昭和16年)12月、真珠湾攻撃があり大戦がはじまります。
翌1942年(昭和17年)の1月11日、戦闘に備えて実射訓練を丹賀で開始。
8発を発射し、最初の4発は射程距離1万メートル(10km)、
後の4発は射程距離2万メートル(20km)を発射。
そして、最後の1発が砲身の中で暴発し、
砲塔井の根元から吹き飛ばされました・・・。
この被害によって、16名の方がお亡くなりになりました。
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米軍の提案による「ワシントン海軍軍縮条約」によって、
ここに転用されることとなった砲台が、
米軍との大戦に備えた訓練で暴発する結末となってしまいました。
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そんな悲劇(歴史)の上に、私たちは生かされています。
歴史を知らなかったことが、
ときに罪のような感覚を覚える瞬間がありますが、
私だけではないようです。
意外にも、遠方からここには見学者が訪れています。
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今回、内側の写真をあまり掲載していませんが、
中は言い表せない緊張感のある空気が流れています。
今は、そういう場所が少なくなったように思います。
自らに喝を入れるために、赴くのも良いかもしれません。
それにしても、貴重な財産です。
この日、ドームの外にはこんな最高の景色が広がっていました。
平和の下で、鶴見大島をぼんやり眺めます。