文豪 2023/03/13 ボボボブログ 雑日記
話の種
本当に”自分らしく”いたいか?
どうせなら全員イヤホンして歩きスマホしててくれ。そしたら自分は歌って小踊りながら街中を歩くからさ
文豪は何がすごいのか
確率を越えて
自分らしくいたくない
自分らしくいよう!なんてフレーズ、今のご時世耳にタコができるほど聞く。農耕民族の土地に西洋的な個人思想が流れ込んだ時、そこには多大な摩擦と混乱が生じるだろうということは想像に難くない。
それでも多分輸入は必然だった。自身を曲げ、抑圧されていた自我をどう発散するかに苦心している者共にはなんとも都合が良かったのだろう。
そういう意味で自分らしさは盾になる。
自分はこういう人間だからこうしてくれたら助かる。自分はこれが好きだ!自分はこういう人間だ!といった具合に高らかに宣言することで守れるものはたくさんある。その保身を自分は否定しない。社会的に圧殺されないために致し方ない人々もいるだろう。
自分は自分らしくいたくない。
本当の自分、自分らしい自分。どれも自分の凡庸さを見せつけてくるので耐えられない。
もし必死こいて自分らしくいようとしたところで、結局自分は何れかになれたことにはならない。
こじつけに、暗闇の中で触れて選んだ色なんて信用ならないんだよ。
いつの間にか染まっていて欲しいんだよ。
高く上からみても、どこにも余白がないなんて、そんな仰々しい結果を求めるのは今思えば傲慢で疲れる。
だからこそ、ふらりと歩み寄った時に、ほのかに幸せの色と香りがそこここに散見できればそれでいい。
今は、それくらいの自分らしさでいいと思える。
スマートグラス
アメリカの道を歩いていると、歩道の幅が広いことに驚かされる。キャンパス内に至っては、実質、全部歩道なので歩行者の密度はさらに下がる。
そうすると自分はちーさい声でたまに歌ってしまう。夜遅く誰もいない時には踊り歩いてしまうこともある。TENDREの「RIDE」を聴きながら平坦に歩ける人間はこの世に一人もいない。
今日の昼間、イヤホンをしながら一人で次の教室へ向かおうと歩いていたとき、周りを見てふと気付いた。半径100m以内にいる人間(約10人)がほぼ全員ヘッドホンかイヤホンをして歩きスマホをしていた。あまりにも比率が高すぎてみんな携帯に緊急アラートでも来てんのか!!?と思う始末。
彼らは視覚、聴覚を異世界に捧げて最高のウォーキングタイムを満喫していた。その間自分は、唯一耳を開放していた歩きスマホマンを睨みながら、
「ああッッッッ!!あいつッッッ!!あいつさえイヤホンしてれば屋外カラオケタイムだったのに!!!!」
とか考えながらTwo Door Cinema Club の「What You Know」に合わせて小踊りしていた。
ちょうど最近、Gizmodoのスマートグラスのレビュー動画を見た。(リチャードさんが喋ってるだけで落ち着くので。)現在もうすでに一般販売されているスマートグラスはちょっとゴツメのサングラスのような見た目で、レンズの内側に巨大モニターを、AR技術を使うことで何台でも空間に設置できる。
将来、人は電車の中でスマホをいじらず、代わりにみんなメガネをかけてニヤニヤしながら真正面の虚空を見つめるという絵面になりそうだね、という話だった。
そんな世界になったら今より簡単に人の目を盗んで公共の場で歌ったり踊ったり変顔したりできるのに、、とか思ってしまった。
文豪
今日は自分の日本語愛という木が大きく育った日だった。自分は基本、物事に対するパッションはいつも自覚すらできないほどゆっくりと、沸々と育つものなのだが、今日はその木に実がなった瞬間を目撃したようだった。
梶井基次郎の、「桜の木の下には」を読んでしまった。
読んだことがない人は、ぜひ読んでみてほしい。
自分が好きだった場面、表現を一部抜粋、しようと思ったが多すぎて結果的に全体の約半分を引用してしまった。
衝撃的すぎた。なんというか、全身の「洞察の毛穴」がこじ開けられたような感覚になった。
平常時の何段も上の集中力を以って活字を一心に喰っていた。
でもそれと同時に皮膚をかすめる空気の流れや、生唾の舌触りもが脳の情報処理区間に送り込まれていた。活字も感覚も全てを統合して自分は全力でその瞬間に居続けたのだ。
極小の時間の点を一つ一つ繋げて、時間という線状の体験をなんとか構築していた。
今までの読書体験とは一線を画していた。
自分は活字の一部になっていた。
文豪が文豪と呼ばれるのには無論、理由がある。
自分が驚いたことの一つは、彼らがいかに嘗てない表現を使いながら読者に鮮明で痛快な想像・体験をさせることができるかという点だ。
自然現象の神秘的な美しさ、神々しさ、普遍性を表現したいとする。そんな時にどんな表現が思いつくか?無難な表現になったって、今まで言葉に起こされた事がなかった概念を、そしてそれを伝達する表現を新たに書き起こすだけでもそれは偉業と言える。
現在猛威を奮っているチャットAIは確かに自然な文章を書くことができ、恐ろしい精度にまで進化してきた。しかし、彼らは所詮、膨大なデータベースの上で賽を振るだけの「無限の猿定理」の猿と言える。要するに、データベースを元に、次にくる最も確率の高い文字、単語は何か、を繰り返す自問自答するだけなのがチャットAIである。
昔々あるところに、の次に来る確率が高い言葉は?
1位、「お爺さんとお婆さんが」
はいじゃあそれ打ち込もうねぇーー
を繰り返すことで「自然な」文章を生み出す。
ここで改めて自分が思う、文豪の文豪たる所以を提示したい。
「嘗てない表現を使いながらも読者に鮮明で痛快な想像をさせる」
嘗てない表現は、どう転んでも今のチャットAIにはできない。
チャットボットのデータベースの中で、「桜の根は」の後に「貪婪」なんて単語はどんな確率で使われている?
しかも、やたらめったらに確率の低い単語を組み合わせればいいなんてもんじゃない。その上で、意味が通らなくてはいけない。伝えたいものが一貫していないといけない。ただ低確率のものを吐き出せても、それはパプリカ構文を量産する装置を作っただけにすぎない。少なくとも今のチャットAIは「意味」を理解しているわけではないのだから。
最後に
確率に、文章生成の惰性にとらわれない、自分の本当に伝えたいことを切り抜いた文章を生成できるように心がけたいです。
自分の感じたことや、自分には世界がどう見えているのかを最大限の解像度で一歩ずつ、刻み込むように書くことでそれは実現できる思います。これからもそれを意識して、逐一丁寧に書いていきたいなと思います。
まぁ日記だから全然手抜きな日もあるんだけど。そんときはそん時でチャットボットには書けなそうな尖った文を書いてやる、、!
ぐちゃぺぱまた。
斎家リック