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「やってる」と「慎ましさの美学」 2023/02/16 ボボボブログ雑日記

まずは話の種

  • アウトプットが習慣化した結果、インプットの質を前より気にするようになった。これって本当に自分が見たいものか?これって自分が見たくて見ようとしてるのか?みたいな感じ。体重計を買って食べるものも気になり始めるのと似た感覚かも。体重計持ってないけど。

  • 人間はやはり機械とは根源的に違う。という主張に対しての自分の反応。人間の行動は統計学で大体判別がつくが、例外が出る。常に例外がいるため人間は特別、と直感的に思うことができる。が、あえてそれに反抗するなら、それは人間だから例外が出るんじゃなくて、統計学が不完全なだけでは。

  • 自分が思う、言語がなんなのか、芸術がなんなのか、哲学という存在、を書き留めたいんだけど日記と別で書くべきか??

なんの話をしようかな

今日はカッコつけない話をしたい。アドリブで何を書くか決めたいそんな日。カッコつけないと言った割には星野源のAin't Nobody Knowを聞いているのでちょっと頭の芯が揺らめいていて、不意にカッコつけたさが頭の皿からキーボードにこぼれ落ちてしまうかもしれない。
カッコつける、って単語。なんだか不思議。星野源だけに。じゃなくて、語源の話がしたい。源だけに。いや、ほんとに上手くないのよ。カッコつける、って改めて思うと、カッコいい仮面をつけるみたいなニュアンスなのだろうか。そんでなんで不思議と感じるかというと、そこから連想するものにある。日本の文化って自意識めっちゃ気にするなぁという件。アメリカに来て改めて思う。社会で個人を抑圧したいのか、なんなのかわからないが少し行き過ぎた正義感のようなもの付随しているのではないかと感じることがある。自分がそれを想起したエピソードは確か、赤い通知マークを消したいがために一瞬開くLINEニュースのとある記事のタイトル。あたしはみんなの姫なので、と発言した〇〇が、みたいなそんな感じのおそらくスカッとジャパン的な内容の記事。(余談だが自分はこういう記事や、スカッとジャパンとかいう番組が心底好きじゃない。日本文化の汚点を塗り潰そうと硫酸をかけているように見えて、どうしてそんなことを、、と、深く哀れんでしまう。ただこういうエンタメでしか救えない傷もこの世のどこかにあるんだろうということも理解できる。それも含めて心が痛い)

優位性の明言

あたしはみんなの姫なので、という発言を一般化すると、自身の社会の中における優位性の明言、になるだろう。これが日本社会だとなかなかタブーというか、忌避されることが多い印象がある。例えば星野源が自己紹介する時に、みんなに愛されてる星野源です。とか言ったらいくら星野源のファンでも、いや、え、ちょっとそれは、、と狼狽することだろう。アンチにとってはなんとも甘美な噛みつきポイントだ。おそらくあのキムタクですら、僕かっこいいと言われてますが、なんてことは言えない。しかし、よくよく考えたらそこまで避けないといけないことだろうか、、?自分が社会におそらくこう思われてるだろうということを明言するのはそんなに悪質なのか、、?

自意識過剰

おんなじか、共通点があるだけかわからんが、一つ思うことがある。自分は「あの人多分自分のこと好きなんだろうな」と思うことが凄く嫌だ。というか多分そう思ってる自分のことが好きじゃない。そして別に他人にその考え方を押し付けるわけでもない。
留学先の大学の学食は、入場する際にカードをタッチしないと入れない仕組みになっている。そのカードをタッチする際、そこに突っ立っているバイトの人に必ずやってもらうのだが、週4日くらいの頻度で担当している女性がいる。自分は基本的にこの世の全ての労働者を尊敬しているので、特に接客業の人は最大限本人の仕事を楽しめるように自分もいい対応をするように心がけている。そして全然無理をしていない、心から尊敬しているから。それでいつもカードをタッチしてもらう時、自分は笑顔なわけだが、その例の女の人は日を追うごとにめちゃくちゃ笑顔で返してくる。もう最近はすんごい笑顔。僕は君の家族か何かか?と錯覚するくらいの笑顔。しかもその上、彼女がオフで普通に学食ですれ違った時も超笑顔。なんなら自分の隣に座ってきた。しかし自分はヘッドホンをしているので別に話しかけてくるわけでもない。こんな状況になると、いや、この人もしかして自分のこと好きなんじゃ、、と思ってしまう。しかしそんなことを思ってる自分が好きじゃないのでさっさとそんな思考を頭から霧消させる。
この現象はもしかしたら先の「自分の立場を明言するのは禁忌」という社会通念と共通する何かがあるように感じる。いや、まぁただ単に自分の恋愛自己肯定感が歪んでるだけとも捉えられるが、それはそれで長くなりそうなので一旦ゴミ箱の底にそっと置いておく。どうせまた内から滲み出るテーマなんだからわざわざ頭の片隅に置くのも勿体無い。それはそれとして。
自分の社会における優位性を明言しちゃいけない、というのは裏を返せば慎ましさの美学が元になってるのかもしれない。イチローはその確たる例だ。イチローが国民栄誉賞を辞退した話は他文化のレンズから見たらどう映るのだろう。今度ルームメイトに聞いてみよう。にしても個人的にはこれは行き過ぎな気もする。そしてこの遠慮、慎ましさの美学がなんとも拗れるのが、「やってる」という感覚だ。
「やってる」と言われてしまう状況には色々なパターンがあるだろうが、その中でも、本心ではないが良く映るために「あえて」善を行うパターンがある。これがあからさまだと、人々は「やってる」と感じてしまう。これが慎ましさの美学と混ぜ合わさると、もはやパワーパフガールズが生まれる勢いだ。礼儀というフラスコは破砕し、蔑みが蔑まれ、それがまた蔑まれるという自称正義の無間地獄が生まれる。その過程で、本来求めていた「あえて」ではない真心の善行も嘘乙、と括られてしまう。
じゃあその地獄からどう抜け出せばいいのだろう。自分がパッと思いつく答えは、もう人の心を見透かそうとするのはやめようや、、という程度のもの。参考になるかわからないが、自分はこれを思うことである程度自分のタスクと他人のタスクを分離することに成功している。他人の心は見透かしそうとしても基本的には確かめようがないので、限界があることを認める。ただ判断をしないといけない場面も往々にしてあるので、その場合は自分の持つ情報を最大限に活用して心の中だけで結論を出す。ただ、それはあくまで自分が知ってる範囲だけで構成された世界に過ぎないという意識を忘れない。自分が知らない情報、世界がいくらでも待ってるという感覚を常に持っておく。そんなこんなで生きていけば過剰に人を攻撃することはそうそうないんじゃあないかなと思います。眠いのでここらで終わります。

じゃあ、また

斎家リック

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