
バレーボールというスポーツ②#26
「バレーボーラーの一貫育成メソッド」 制作の第26回です。
前記事から、スポーツの語源やバレーボールの起源や歴史についての解説をしています。
本記事では、バレーボールの親とも言えるバスケットボールの誕生における社会的背景と、バレーボールの創始者にスポットを当てていきたいと思います。
自由遊びからリクリエーション活動へ
再創造(リ・クリエーション"re-creation")として誕生したバスケットボールですが、当時の社会的背景として南北戦争(1861~1865)の存在は決して見逃せないものがあります。南北戦争は、当時アメリカの北部(自由州)と南部(奴隷州)の激しい対立によって行われた大規模な内乱として位置付けられています。
そして、この大規模な内戦が終了した後の社会変動は凄まじいものでした。
内戦後の混乱という厳しい状況に加え、戦前から始まっていた産業革命の急発展とともに都市化が急激に進むことで経済的格差が起こり、それに伴った貧困・青少年の非行・黒人差別問題などの社会的問題がまさに山積みであったのです。
そんなカオスとも呼べる状況を明るい未来を構築すべく、次世代を担う子どもたちを守り育てる環境が必要だとの意識が社会に生まれ始めました。そして、この意識の具現化がアメリカ各地に造られていくことになる公園でした。
こうして、子どもたちが安心して遊べる環境が整い始めたことによって、子どもたちの発想から様々な自由遊びが生まれ、それらは次第により自発的で創造的なリクレーション活動へと発展していったのです。そして、これらの活動は学校教育の現場や地域社会全体へとさらに広がりを見せていくのでした。
暗雲漂う内戦直後の悲劇的な状況から、明るい未来を構築しようと動き出した人々によって公園という環境が整えられ、そこから創造された活動、つまりリクレーション活動がバスケットボール、そしてバレーボールを生み出す源泉となっていることを私たちは忘れてはいけないと思います。
バレーボールの創始者:ウィリアム・G・モルガン
ここまではバレーボールの歴史を紐解くために、その親であるバスケットボールがどのような社会背景の中、誕生したのかを見てきました。
ここからは、バレーボールの誕生に最も多くの貢献をしたであろう一人の男性、バレーボールの創始者であるウィリアム・G・モルガンに視線を注いでいきたいと思います。
ウィリアム・G・モルガンは、バスケットボールが生まれる約20年前の1870年にこの世に生を授かりました。彼は、持ち前の体格の良さを生かして高校時代はフットボール部で大活躍し、バスケットボールの創始者であるジェームス・ネイスミスに、スカウトされるという形で出会ったのでした。
そして、彼はスクール・フォー・クリスチャン・ワーカーズ(現スプリングフィールド大学)の門を叩くこととなり、そこではリクリエーション技術に関する教育を受けることになります。当時のアメリカは、スポーツを教育の手段とする体育に関心が強く向けられ始めた時期でもあり、グラウンドをフィールドにしたチーム競技が行われるようになっていました。
こうした社会的背景もあり、彼はYMCAの体育指導員となって、ビジネスマン向けの体育の授業を担当することとなります。
体育指導員として感じた違和感と飽くなき探求心
バスケットボールが誕生して約5年の月日が経とうとしていた1895年。
特に若者の間で瞬く間に広がり人気を得ていたバスケットボール。そんなニュースポーツの人気が急上昇しつつある渦中にいた彼は、誰もがバスケットボールに興味を見出しているわけではないということを、体育指導員としての立場から敏感に感じ取っていました。
面白く、覚えるのも、プレーするのも簡単。さらに屋内で手軽にプレーできるという「楽しむ」ための条件が揃ったバスケットボールでしたが、彼はビジネスマン向けの授業を担当していたからこその視点を持っていたようです。
バスケットボールは若い人たちのニーズを満たすことはできるが、激しいボティコンタクトがあり、身体的にも負荷が非常に高く、若くはない人たちにとって適したスポーツとは言えない部分があると彼は感じていました。
そして、このささやかな違和感と体育指導員としての飽くなく探求心が、新たにニュースポーツを創造するという長い旅路へ彼を駆り立てることになるのです。

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