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天は人の上に人を創らずの本当の意味?
Xin chao!
帰宅後ムスコに「お母さんに一目惚れ」と言われたかと思うと、お気に入りのテレビ番組が録画されていないのを知るや否や「お前!」とか言い出す余りのツンデレぶりに翻弄されているサイゴンの輪のKayoです。
今日も楽しく生きてますw
さて、「出会う人は自分の鏡」だとよく言うけれど、それが今の自分のときもあれば、すでに通り過ぎてきた自分のときもある。
自分より一回りも二回りも上の人と話していて、
「ああ、この人はまだこのレベルで世界を見ているのか」と上から目線で思うこともあったりする。
でもさ、結局、「まだそこにいるのか」ていうレベルは、自分が通ってきたから今の自分より低いレベルに思えてしまうのだけど、
これって間違ってるよね?
例えば、私が人に心から「助けて」って身をゆだねることができるようになったのは30歳を過ぎてベトナムに渡ってからだったけど、そしてそれができるようになった自分をとても誇り高く思ったけど、
高校からの友達はすでに物心ついたときから素直に「助けてもらう」ことができていた。
私が当たり前に「助けて」って親にいえなかったときに、
「え!なんで?助けてもらえばいいやん!その方が楽やん!」
と手を差し伸べられることを感謝して享受していて、そのセリフを聞いた私は目ん玉が飛び出るくらいショッキングだったことを今だに覚えている。
だけど、彼女が私より人生での学びが多かったり、悟りの境地に達してたわけではまったくない。
それはつまり、私にとっては「助けて」が言えるようになることが大切な学びだったのだけど、彼女にとってはそれは学ぶべきカリキュラムに含まれてなかっただけなんだよね。
かつての自分を見ているような言動をしている人に出会ったとき、
その人は私が学んで悟ったことをまだ悟ってないだけで、私がまだ学んでいないことはすでに習得していたり、
つまり何が言いたいかというと、人生のステージは自分の中でグレードアップしていくだけで、人と比べて進んでるか進んでないか、という次元の話ではない、ということ。
みんなが同じ階段を一生懸命上っていて、一つ悟ったら一段上る、私は10段目であの人は4段目で、だからまだ思考が幼いんだ、とか経験値が低いんだ、
とかいう観点で他者を見たいのは、私がそうやって他人と比べることで、安心したいだけなのだ。
ひとは階段を上っているのはなく、それぞれの草原を歩いている。
だから上も下もレベルもクソもないのだ。
だから、ひと昔前の幼い自分に出会っても、彼らから学ぶことはいくらでもある。違う側面を見ようとすればいいだけなのだから。
人って、昆布だな。
噛めば噛むほど味がでる。(?)
つまり、多様性は、一人の中にも幾重にも内在しているのだと思う。
それが認めあえる仲になれたら、素敵だね。
【著者 kayo *自己紹介】
1985年11月1日生まれ。
ADHDとASDを診断されている10歳のムスコが相方のシングルマザー。
結婚や離婚、人生の紆余曲折で仕事を変わるが、いつもだいたい営業職。(下着販売、複合機、生命保険、広告代理店、不動産)
2016年に当時6歳だったムスコを連れて、
行ったこともない、友達もいないベトナムに渡る。
現在は地元である兵庫県西宮市北部にて「みんな違ってみんないい」をキャッチコピーとしたベトナムカフェを開業すべく、マイノリティや、多様性を認めあえる空間をSNSを通して発信している。
Instagram:saigon_no_wa
Facebook: @Saigonnnowa
LINE Official: https://lin.ee/eFHKd6Y