青森の遊郭、塩町、柳原遊廓の話
元禄八年といえば江戸時代の1615年
青森町の奉行から塩町で芝居小屋と
洗濯女を抱えておくことが許されたと言います。
それは遊廓が許されたということでもありました。
そして青森に塩町遊郭が出来、賑わっていたのですが
明治五年(1872年)三月二五日
大風の日昼近いころ博労町、現座の青柳から火を発すると
火災は烈風にあおられて、見る見る拡大
塩町・葭町から堤町、茶屋町に飛火
消防はもちろん市民も必死に
その火を食い止めようとしますが
475戸を焼失してようやく鎮火したといいます。
そして
まだその復興もしない同じ年の10月6日
春にあった大火よりより一層の大きい火災があり、
今度は焼失729戸にも達し
塩町はその後明治6年、同一五年、同二二年と
度々の火災に見舞われ、
さすがに全盛を誇った塩町遊廓も復興ができず
明治 22年、塩町遊廓は柳原へ移転します。
柳原は現在の港町界隈にあった大坂町の一部。
明治15年、日本鉄道会社が設立され
東京から青森までの東北線の鉄道を作る計画されると
青森駅の候補地として浪打駅付近
市役所の敷地と大坂町である。 建設工事が進み
これら駅候補地へ買収交渉をしましたが
いずれも地主が地価を引き上げ
会社の予算外であったので交渉が決別
たまたま候補地外でしたが
沖館海岸と安方町共有地が安く
しかも広大な土地であったので、
安方町共有地と沖館海岸に青森駅建設の決定
予想がはずれた大坂、他二人の地主が、
塩町遊廓の柳原移転の話が出たので
急速に進み、柳原遊廓の建設が進んだとされています。
これが有名な柳原遊廓
柳原は東北でも一、二といわれた大規模な遊郭と言われました。
当時としては珍しい木造三階建ての多くの妓楼(ぎろう)が並ぶ遊郭が多数並び
店先には、当時普及したてのガス灯が灯(とも)され、
夜になればさらに華やかさを増し、
堤川の反対側から見える電灯が灯るその賑(にぎ)わいはさながら不夜城ようなものだったと記録にあります。
女郎衆(じょろうしゅう)は総勢200名。
一・二等貸座敷は12~13軒。
三等貸座敷は30軒くらいもあり大変栄えていたそうです。
その柳原遊郭が明治43(1910)年の五月、大火になり焼け出され、新しく旭町が遊郭地として指定されました。
その期間約30年足らずでした。
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記事作成/鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)
記事参考 、写真、ふるさとの思い出、青森、肴倉弥八、
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