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一代で巨万の富を造り青森市の有力者となった〜大坂金助の話

青森市は開港された港町ですがそれ以前からこの場所には
蜆貝村 善知鳥村の二つの漁村が存在してました。
蜆貝が町になり善知鳥村が安方町になって
そこでは陸奥湾で獲れる海産物を青森町内や弘前方面に供
給していました。

安方町では鳴海、大柳、
蜆貝町には木輿(ボクヨ)と呼ばれた大きな網元がいたそうです。

そんな蜆貝町に弘化2年に大坂金助は生まれました。

金助の父は船で南方から帰航していたのですが、時化(しけ)のため青森を眼前にしながら荒天で船が破壊され、船とともに命を落としてしまいます。

父を失って、金助は母の手一つで成長するも、無理が祟ったのか
11歳の時、運悪く母は病床に伏してしまい、家計を支える為に金助は働きに出なけれならなくなってしまいます。

まだ幼い金助は、蜆貝の網主、木興に行き漁事の手伝いをはじめました。

その駄賃に金助は獲れた魚をもらい。
もらった魚を売り、母の薬を買い、そうやって家計を助け、なんとか生活を続けたそうです。



親孝行な魚売り、そんな評判も町ではひろがったようです。
でも金助の親を思うその気持ちも神に通じなかつたのか

金助18才の時、母は愛児の手にいだかれて死んでしまいます。

ただ1人の弟も早くに失っていたので

天涯孤独となった金助は、この時からたった1人で生活を送ることとなります。

1863年(文久三年)、金助19才の時、
再び蜆貝の網主木奥のもとに身を寄せ、魚売りりをしてたのですが、
ある日、船中の魚が2、3匹何者かに盗まれた事件がありました。

「盗んだのは誰だ。」

「犯人は金助に違いない。」

誰かが金助に嫌疑をかけます。

「自分はそんなことしてません」

金助の弁解するのもきき入れず、多勢の前で金助は散々ののしられたそうです。

金助は無実の罪を着せられ、その怒りは頂点に達したが、
周りには海の荒くれた漁師がたくさん、抵抗しても敵わぬと観念し、涙を呑んで無言のまま、商道具の天秤棒をたたきつけて折って言い放ちます。

「二度とこんな商いなんかやるものか、今にみろ、木興」

金助は歯ぎしりしてその場を立ち去ります。

このことで金助の中に何かが生まれていきます。

父の死、そして最愛の母の死、ただ1人の弟もこの世にはいません。

金助はその日、木興に復讐、世間を見返してやろうと誓わずにはいられませんでした。

それから、金助は侠客(きょうかく)の仲間、いわゆるヤクザ世界に入って破天荒な生活を送ったと伝えられています。




しかし、そんな荒れた生活も結婚を機に変わっていきます。

金助は立ち直っていったそうです。

そんな明治5年3月25日、大坂金助伝によるとその日は

今までに出会った事もないような風の強い日だったそうで博労町から火が上がり、火災は烈風に煽られて、みるみる拡大し塩町から堤町、茶屋町に飛び火し、消防の必死の努力もなく、475戸を焼失してようやく鎮火したそうです。

この大火こそは金助にとつて運命を開く大きな機会となったのです。

金助はこの機を逃してはいけない。チャンスが周ってきたと

叔父の金臓を説得して、資金を借り
一軒の貸座敷を買いうけ、粗末ながら三層樓を建築し、

幸いにもそれまで営んでいた坂田家がこれを機に廃業することになったので、同家の抱え娼妓全部を引受けて名も「大金樓」と名づけて木の香も新しく貸し座敷を開業したのです。

金助がそこまでして開業したのは、

金助が北海道へ行きいろいろ歩いて見てまわっていたことがあって
その頃復興又は新開地で、人の出入が盛んになれば、
先ず繁昌するのは、何よりも貸座敷であることをよく承知していたからでした。

この頃の貸座敷は単に遊興のみならず、今日の旅館同様に利用され
今日から見れば、旅館と料理屋とが一緒になったようなところでした。

ついに幸運の芽が芽生えたのです。

大火後の復興に従事する職人が
続々と青森に入り込んで来ました。

大火で焼けてしまった、そのタイミングで
遊び場所は大金樓一軒だけ
独占的に大盛況を続ける金助の大金樓

さらに同じ年の10月6日
復興も出来ていないのにも関わらず
春の大火より一層大きな火災がおき
焼失729戸の家々が焼失
青森には復興のための人の出入りが、さらに激しくなっていきます。
コレまで大盛況だった大金樓ですが
ほとんど息つく暇もない程の益々の大繁昌となったそうです。

そんな翌年、明治6年
明治政府が地租改正を行います。
コレにより日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立されることになりました。

地租改正の勅令が下り、各地の投資家が土地売買のため
青森に多数入込んで来たので、土地売買の取引は遊廓で行われました。

明治9年に筒井村に歩兵第五連隊が建設される計画が持ち上がり、この建設に東京方面から、多数の人夫や職人が来たので連日、連夜色街も賑わい、大金楼は他を寄せ付けぬ程の売り上げと地位を占めることが出来たそうです。

そんな大坂金助の貸座敷営業は明治14年まで続き
彼はその年サラリとやめ、酒造業へ転業して博労町へ移ります。

大金楼が繁昌して、次第に復興していくにしたがって他にも貸座敷業者が出来て競争も激しくなると見込んでのことだったのかもしれません。

しかし塩町はさらに大火のあった次の年の明治6年、15年、22年と度々の火災に見舞われるのです。

こんなに続くのなら諏訪神社の敷地へ移転した方が良いという意見もあったのですが
遂に明治22年塩町岡本亭が火元で69軒が焼失した大火をそのきっかけとして柳原に移転する計画が実行されることとなります。

この柳原は市の東部発展策を見越して盛岡の石井省一郎、大森直一と協議して大坂金助が買い占めていたのです

その後、現在の港町、当時の柳原に大規模な遊郭が出来て金助は
青森市一番の大地主といわれるまでに成長します。

 その後金助は明治27年には、青森商業銀行を創設して初代頭取となったのをはじめ、青森電灯株式会社、株式会社青森倉庫、青森ガス株式会社などを次つぎと創設し、実業界でも活躍しました。

実業界の活動で特筆に値するのは、明治後期の青森商業会議所における活動
 金助は、明治26年の商業会議所設立発起人に名を連ね、設立とともに常議員となり、明治33年から明治41年まで第3代目の会頭として5期勤めています。

青森商業会議所は設立当初活動不振でしたが、金助が会頭を勤めた時期には、日露戦争後の商工業の活況を受けて活発な活動を展開したそうです。
明治39年の青森港の特別貿易港指定と明治41年の青森~浦塩(ウラジオストク)間航路の実現、農商務大臣への建議など、大坂金助を会頭とする青森商業会議所の功績が少なくなかったそうです。

金助は政治の世界にも進出
2回の議長活動を含めた
市議会議員としての活動は36年

このほかにも、県議会議員、衆議院議員、貴族院議員を歴任し
のちのみちのく銀行の前身、青森商業銀行を創設して初代頭取となって

さらに青森電灯株式会社、株式会社青森倉庫、青森ガス株式会社などを次つぎと創設しています。

大坂金助は市政財界の巨星と言われるほどの実力者になったのでした。
大正14年(1925年)3月18日
大坂金助の葬儀が行なわれた時葬儀に1千人を越す会葬者があったそうです。

金助は後年近親の人達に若かりし昔のことを振り返って
「あの時、木興に復讐をしてやろうと誓わなかったら、 今日の成功は得られなかったかもしれない、加賀寅といい、木奥と云い、今日では有難いと思っている」と云つたそうです。


記事作成 鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)
記事参考 大坂金助伝 太田正明 大坂金助伝記編纂

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