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「大火事が多かった青森市のお話」


街をはしる南北の道路が異常に広い
特に柳町通りって、すんごく広いと思います。


今日は青森と火災のお話
ここ数年青森市で大規模な大火事は記憶にないですが
実は青森市はめちゃくちゃ大火事が多い街でした。

青森市は
町並みが東西に伸びた形をしている海岸に沿って
強風が吹く、その地理的環境に加え
商業地域、住居地域、
そして工業地域もみんな一緒になっていたので

失火するとその火がすぐに他に移って大火になっていたそうです。

線路内の列車から飛び火して
大火になったこともあるそうです。

江戸、明治、大正、昭和と記録に残った大火は数多くあります

中でも

明治43年(1910)の大火は空前の惨事だったそうで

安方町の菓子製造工場の煙突からでた火の粉が
強風にあおられ、隣家に燃え移り、4時間ほどの間にほぼ市内全域を嘗め尽くす大火災となります

今では考えられ無いのですが弘前のような洋館もたくさんあったそうですが
そんな近世的な街並みも焼き尽くされたんだとか。
焼失家屋は7,519軒(諸説あり)と言います

強風のためお役所の書類が野辺地町に降ったり、焼け襖(ふすま)が三本木町(十和田市)に落下したとも伝えられています。

 この時、明治天皇は特別に救恤金(きゅうじゅつきん)10000円を下賜(かし)、日本の国民各位からの募金も160000円となりました。

 青森市はこの火災のあと
建築の取締り規則を作って、燃えづらい屋根葺きや、コミセの廃止などをすすめました。

浦町駅通りと柳町通りを拡張、防火道路としています。

街をはしる南北の道路が異常に広いのは火がそこから拡がらない為だと言います。

その後

昭和の戦災では再建した市街地も
ほとんどが焼失し、
青森の街はまたもや再建を余儀なくされました

戦争が終わり
復興をして立ち上がろうとしてからも大火事は続きます。

昭和22年には旭町・古川・長島地区の大火になって
約800戸200棟が全半焼するなど
昭和になっても
大火はありました。

これらの青森市の大火消防活動に当たったのは
青森市中の警察や消防組はもちろんのこと、
弘前・. 黒石. . ・浪岡・小湊. の各警察署並びに分署
そして青森歩兵第五 連隊などの軍隊だったそうで

大火のごとに防火体制も見直されていったんだそうです

文中少し触れましたが
拡張した青森市の柳町は広く緑が植えられたグリーンベルトがありますが
このグリーンベルトは大火防止のために造ったそうです

小さい頃から
青森市の人間の新しいもの好きに関して多少疑問を持ってましたけど
いろいろ青森市の歴史などをみてみると

火事に空襲にと
度重なる出来事によって
歴史 的価値ある建物や街並みはないのだから
と、 新しいものに価値を見出そう と してきたのも仕方ないと思えてきます。

火の用心にはくれぐれも気をつけたいです。


記事編集/鈴木勇

記事参考、転載

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1976_sakata_taika/pdf/1976--sakataTAIKA_07_vol3.pdf

https://ameblo.jp/aomori-kuushuu/entry-11237052938.html

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