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青森にもあった、狸小路〜巨大なシジミが採れた蜆貝町
青森市の川と言ったら堤川ですが
かつて堤川にかかる石森橋から渡ったところに
小さな砂州があったそうです。
そこにはエビス島と呼ばれ
蜆貝の漁師が船を停めていたそうです。
さらにそんなエビス島には
蜆貝町民が建てた神社もあったんだそうです。
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そんな石森橋の西側は青柳
青柳といえばかつての塩町があり
結婚式場のモルトン迎賓館の場所には
映画館の歌舞伎座がありました。
この場所には寺山修二が
中学2年から高校卒業までの5年間を過ごしたというころでも知られています。
そんな歌舞伎座の裏の通りを
当時はたぬき小路と呼んだそうで
この辺りには3等貸座敷いわゆる遊女屋も多くあって
ずいぶんと賑わっていたと言われます。
気になるたぬき小路
正確とは言えるかどうかは判明しないとしながらも
たぬき小路の由来はというと
暗い場所で船員や客が通りかかると
女がどこからともなく現れて無理矢理引き入れられる
そんなことから名付けられたと言います。
そんなたぬき小路の一帯には
蜆貝沼という大きな沼があったそうです。
そして、この辺は蜆貝村と呼ばれていたそうです。
蜆貝村の由来は
この辺りにてシジミ貝が採れたからだといいます。
尻無川や蜆貝川という今はない川があり、そして堤川尻では
蜆貝が豊富に取れ、有名な青森蜆貝の産地でもありました。
ココで採れる蜆貝は大きさ二三寸と
書物に記されています。
一寸が約3.03センチメートルなので、
書物が誇張してないとすると
なんと10センチメートル近くの蜆貝
よく見かけるヤマトシジミは
どれも2-3cm程度大きさなので
今から思えば
そんな大きなシジミが採れていたことになります。
書物にはさらに
貝の内赤く、外黒く奇物なり。
とあるので
蜆貝ならぬ、赤貝やら、北寄貝のごとくの蜆貝
それがとれたのがこの蜆貝町周辺だったとのことなのです。
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しかし、青森の港が開港されると
善知鳥村と共に蜆貝村もあわせられ
人口も多くなって行くと蜆貝沼も埋め立てられ住宅地となって
尻無川も都市計画によって整理
大きなシジミの住むその棲み家はなくなってしまいました。
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記事編集/鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)
記事参考
青森市町内盛衰記
新青森市史(中世)