「青森市の中心部本町、寺町には墓地がたくさんあった」
青森市は1623年の寛永の時代に湊町として
町割りされて
都市が出来ていきましたが
現在の本町(ほんちょう)、寺町に
常光寺、正覚寺、蓮心寺、蓮華寺の4つの寺
「四ヶ寺(よんかじ)」が並んで、ほどなく創建されたそうです。
これら「四ヶ寺」の南側には寺院の墓地があったそうで
それが今ある本町公園なんだそうです。
今も静かな公園ではありますが
墓地の跡地だったんですね
少し詳しく調べてみると
1871年(明治4年)
県庁所在地になった頃
その寺町、現在の本町にあたる区域は、
青森の町の中心だったそうです。
県庁所在地になったことで
多くの人が青森に集まってきたんです
現在の本町あたりには
かなり賑やかになっていったようです
それにも関わらずその場所の付近には
とても広い面積の墓地
この墓地が
青森の都市化を妨げていたそうです。
次第に人口が増えていくと
墓地の数も減ってきます
そこで
青森市は墓地の移転問題に取り組むこととなります
候補にあがったのは
滝内村、現在の三内
土地買収などいろいろ協議を行い
昭和13年霊園の建設が始まり
18年にはほぼ完成しましたが
戦争で中断して
戦後の昭和22年三内霊園は完成
かつて存在した墓所の多くは三内霊園に移されました。
移転にかかった予算は
当時13万5000円と言います。
現在の通貨価値に直すと
正確な数字ではありませんが、当時の1円は2~3千円程度だとして
四億五百万ほど
お寺の境内にある墓地も日本では多いですが
四ヶ寺あたりに墓地がないのはそのためなんですね
それにしても
青森市の中に
たくさんの墓地があったとは驚きです。
ところで
なぜ本町あたりがそもそもなぜ青森の繁華街になったのかというと
鉄道敷設前、正覚寺から北上
青森製氷の近くに浜町桟橋が青森の海の玄関口として有ったからなんだそうです
一番の繁華街は、
大町(現本町二丁目、県立郷土館付近)が繁華街だったそうです。
銀行・会社・大商店がたくさんあったそうです。
函館への定期船(のち青函連絡船)の乗船場は
旧浜町棧橋にあり、
北海道へ渡る旅客や貨物は降ろされ
人力車か徒歩で浜町まで移動、
その通過点の大町・浜町が繁栄したのです。
善知鳥神社の正面口も
大町を望むように東を向いてるようにおもいます
しかし、そんな浜町桟橋ですが水深が浅いため
その後築港
連絡船が接岸できる港が完成します
函館への定期船の棧橋も
青森駅隣接地に移転したのです。
明治の青森駅は当時、
現在の新町よりも一本海手の安方あたり
現在のわらっせ辺りに玄関口がありましたが
青森駅も、鉄道構内拡張のため、
一本山手の新町へ移転します。
そのため大町・浜町はさびれ、
代わって新町がにぎわうようになっていきます。
新町はその後青函連絡船の活躍とともに発展
廃止とともに静かになっていったのはご存知の通りです。
記事参考元
http://www.komakino.jp/h20-renkeiten-1/h20-renkeiten-1.htm
写真提供
新青森市史
街グルメin青森
記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)