『開かずの踏切と遊郭跡』青森市旭町の話
青森市の古川から旭町に抜ける途中
今は地下道があるところに踏み切りがありました
通称『開かずの踏切』
踏み切り待ちとなると本当に長くて時間がかかり
なかなか遮断機が上がらず、子ども心にイライラしたものです
なんであんな待たされた?
ずっと不思議に思っていましたが
資料を見てみると
その訳は、
青函連絡船の貨車航送に使う
大量の貨車が連絡船の桟橋と操車場を何度も
往復し、これに東北本線を走る旅客列車や、機関車で
踏み切りはいつも降りた状態だったのだそうです。
(踏み切りの西には歩行者専用の簡素な木造りの歩道橋もあったそうです。新青森市史4-187)
しかし、踏み切りが開かない状態だったことで
踏み切りを挟んだ両側には繁華街が形成されて
結構賑やかでした
昭和53年11月、旭町の地下道が全面開通し
開かずの踏み切りから市民が解放されると次第に
お店の数も少なくなっています。
あれだけ待たされたんですから
当然待ち時間に周辺のお店にはお客さんが利用していたんですね
地下道ができて、市民の生活が便利になる反面、人の流れが変り、町内が廃れていきました。
かつてはそんな旭町には
森紅園と言った遊郭があったそうです
戦争の空襲でも
その空間だったところは狙われず
米軍が故意に残したなどという噂もあったそうです
その頃の記憶はほとんど残っていません。
青森の遊郭はこの森紅園が出来るまえは
最初は現在の青柳につくられ火災で焼失し、
さらに堤川の東側の現在の港町に柳原遊郭として移転
規模は、当時すでに東北でも一、二といわれましたが
またまた大火で焼失し、旭町、森紅園へ移転しました。
一説によると当時の財界人が青森市の発展のために
その頃まだ開けていなかった旭町に移転させたという話もあるそうです
かつてのそんな森紅園の入り口付近には浪打稲荷神社なども
ありましたが、こちらの神社は現在は廣田神社に合祀されています。
吉原町、森紅園は
当時の記録によると貸し座敷は21、娼妓の数は104人と八戸には劣りはしたがとても規模も大きなものでした。
当時、娼妓(遊女のこと)は妓楼から金を借り、年季奉公という形で働かされていたそうですが
娼妓は一定の年限を働いても郷里にほとんど帰ることは無く、年季を明ける率は極度に低いものだったそうです
まして、娼妓達の多くは貧農出身者が多かったので、遊女を購(あがな)った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀
結果、大半の遊女は生涯を遊廓で終えていたようです
この背景には農民層の貧困が存在していたとされ
貧しい自分の家を支えた女性達の働く為の
政府公認の売春宿がこの森紅園だったそうです
森紅園の入り口は
旭町から直角に真っすぐ続いていたそうです。
その道沿いには高くそびえる妓楼の建物が軒を連ねていたそうです。
森紅園の道路は大変広く、通常の市道の倍近くもあったそうです
現在はこの地は数軒の飲み屋や旅館、そして住宅が並んでいるが、街の当時の区割りはしっかりと遊郭時代のまま残っています
遊郭森紅園の跡はひっそりしています
浪館にも開かずの踏み切りがありましたが
国鉄がJR東日本になり、第三セクターの青い森鉄道になって
以降開かずの踏み切りはほぼ解消されました。
時とともに街の様子も変わっていきますね