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時速120キロの巨大台風による青函連絡船の事故

青函トンネルと洞爺丸の事故

青函連絡船のかつてのメニュー

洞爺丸 ~昭和29年洞爺丸台風・日本史上最悪の海難事故~

青函連絡船洞爺丸のコックをされていた
秋保栄(あきほさかえ)さんと函館の
青函料理人フォーラムでお会いした事があり
お話を伺う機会がありましたました。

秋保さんは昭和29年の洞爺丸台風の際
青函連絡船洞爺丸に乗船され
事故に遭われ、奇跡的に助かった方です。

フォーラムで私は
秋保さんのお話を伺うホスト役のような役割を任されることとなり
控えの部屋にて
打ち合わせも兼ねて当時のお話を伺ったのです。

実に経験された事が
かつてないほどの大事故
一言一句、おっしゃる言葉を噛み締めようと
聞かせていただきました。

青函連絡船洞爺丸遭難事故というと
大勢の方の記憶に残る事故ですが
若い世代の方にはこの事故を知らない方も多いです

洞爺丸台風の惨事をご紹介させて頂くと

1954年9月26日 北海道函館市。
普段北海道には殆ど上陸しない台風が勢力を保ったまま上陸し多大な被害を与えました
台風15号(後に洞爺丸台風と命名)です。

そして、この台風は津軽海峡にも影響を及ぼします

函館沖に停船していた多くの船が転覆

「海峡の女王」として天皇のお召し船にも使われてきた青函連絡船洞爺丸がもっとも大きな被害を受け洞爺丸は1155人もの方がお亡くなりになりました。

他の犠牲者も合わせると1430人にものぼる方がお亡くなりになりました。

生存者は202人、不明者も多数だったそうです

あまりの被害の大きさに後に
国鉄戦後五大事故、そして世界海難史上3番目(タイタニック・サルタナに次ぐ)の事故といわれています。

秋保さんのお話によると
交代要員として乗り込んだ洞爺丸は
昭和天皇、皇后が北海道ご訪問の際、
御召船にもなった当時の最新鋭船

「勤務はうれしさと緊張感の半々」だったそうです。

そんな洞爺丸ですが、函館港を出た後、台風接近に伴いすぐに停船します。

厨房で作業中の秋保さんは、激しく揺れ、船体が大きく傾くと
急いで救命胴衣を着け
固定テーブルに足をかけ身を守ったそうです。

真っ暗な船内
押し寄せてくる海水が船室に入り込んでくると

恐怖で体がすくんで動けないようになりながらも

必死でわずかにみえる光を目指して潜ったそうです。

光が差し込む水面から出ると

多くの人が必死に逃げ惑っています。

窓から海に飛び込んで出ていく多くの人

自分もその後をついて海に脱出します。

想像を絶する暴風が吹き荒れ

波が大きくうねっていて呼吸するのもやっと

そんな中辺りを見渡すと

たくさんの人が海で力尽いているのがみえ、まさに地獄のようだったそうです

記録では確認出来ませんでしたが
秋保さんのお話によると
多くの外国人の方が遭難しているのも見えたと言います

そして死を覚悟するも

必死に海岸を目指して泳いだそうです。

なんとか岸にたどり着いて

救助に来た2人の男性に両脇を抱えられたそうです

脳裏には今も、あの日の光景が刻まれて いる

そのように語られました。

「生き残れたのは運。それ以外に言葉は見つからない」

 「自然の力を侮ってはいけませんね、でも何があっても最後まで諦めないことです」

「私は生きている。再び授かったこの命を無駄にできない、生き残った訳があるのだと思った」

秋保さんはそのような言葉をおっしゃってました。

そんな秋保さんですが

2019年12月に86歳でお亡くなりなりました。

秋保さんは、お聞きしたことばの通り

魚食振興及の料理教室

ガゴメコンブのレシピを考案

食文化の向上発展に貢献函館の料理界をけん引

元函館食品衛生協会指導員などと活躍

函館の方々から

〝至高の料理長〟と称されていたそうです。

秋保さんも亡くなられ

洞爺丸台風遭難事故より長い年月が経ち

悲惨な事故も忘れられかけていますが

風化させてはいけない記憶だと思いました。

追記

洞爺丸事故で沈んだのは洞爺丸だけではありませんでした。

当時青函連絡船は10隻あり、うち5隻が函館湾に沈んでます。

その結果、死者計1430人、生存者202人と伝えられてます。

そして、青函トンネルは洞爺丸台風がきっかけでつくられることになっていきます。

青函トンネルの工事ですが
話によると、いったんは消えかかったこともあるのだそうですが

洞爺丸のような事故を二度と起こしてはならないという流れになり
青函トンネルの建設計画が進んだそうです。

危険と隣り合わせの海底作業となり、けが人が大勢出ましたが

1988年に青函トンネルは開業しました。

青函トンネルの総工費は6900億円。2005年には北海道新幹線の工事がスタート。2016年に開業しました。

洞爺丸の事故から70年ほどの時が流れていました。

私達は先人の想いが限りなく積もる今を生きている。

いや、生かさせていただいているのだと思うのです。

今、ここにいる。今を生きる。

その時を懸命に生きて生きたいと思います。

記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)

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