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町維持に禁制のタバコ売る〜煙草の莨町のお話
莨町(たばこまち)は多葉粉町あるいは多葉香町とも書くそうです。
そんな莨町は現在の青柳二丁目の一部
莨町が出来たのは、塩町と同様寛文四年の西暦1664年に町割されています。
昔の地図によると莨町より蜆貝町にわたつて、尻無川という川がありました。
長さ百五十間というと272.7m、中間の広さが十八間なので32.7mと記載あり、この莨町の附近の土地は極めて少なかったようです
1681年から1684年までの天和以前には
塩町は十四軒、 莨町はわずかに七軒とあるから町が出来た当時は極めて淋しい町だったようです。
なので1667年の寛文八年に町内の発展策として、たばこの売買をする許可を願い出ます
そして同年、四月九日
莨町での商いが許されることとなります。
煙草の売買が禁じられていたのは、今では考えられないのですが
当時の日本では煙草はまだまだ一般的ではなく、禁じられてられたそうです。
煙草が日本で吸われるようになったのは
1492年、コロンブスがバハマ諸島に上陸
タバコを持ち帰って、これをスペインに伝え
日本には、コロンブスの発見から50年後の
1543年、種子島に鉄砲とともに伝えられ
煙草はわずか百年もたたぬ間にアメリカからヨーロッパをまわって日本に入って来たことになります。
その間、世界各国のそれぞれ国では
なんと煙草を吸ったら死刑とか
鼻をそぐ刑などといったひどい罰則を課せられたところもあったそうです。
それにも関わらず、屈しなかった喫煙の風習は、
我が国でも貧乏草(びんぼうぐさ)、阿呆草(あほうくさ)とも呼れていたと伝えられてます。
多くの身体に悪いという害毒論があったのにも関わらず、煙草をやめさせることは出来ず
煙草が伝わった日本では
1596年から1615年の慶長年間には
長崎や南薩摩の船着場から次第に栽培され始めているそうで
その後幕府では初めて喫煙の禁令を発し
売買する者は売るものも買うものも両方ともの家財を見付け出した者に与える。
もし、路地などで見つけたならば、煙草と買主とおさえておいて訴えれば、煙草をのせていた馬も荷物ともに訴えた人に与えると命令があって、同時に煙草の栽培も禁じたそうです。
それでも、江戸や京都でも喫煙者を、捕えたりもしたのですが効果もなかったといいます。
次いで四年後の1616年の元和二年に再び命令があって、
煙草を栽培した者は町人だと五十日、百姓なら三十日、食糧は自分もちで牢屋に入れる。
煙草をつくった者も同罪、作った在所、つまり国もとは過料として百姓一人百文、1文を32.5円 くらいに考えると3250円出す、作った所の代官は過料として五貫文、一貫文が今のいくらになるのかは、なかなか難しいのですが、1貫が1000文だとしたら、だいたい5000円を出すことに定めたのですが
コレも全く効果がなかつたといいます。
そこで、幕府は寛文十七年1677年には、煙草は来年より本田、畑に栽培することを禁ずるという命令を出します。
コレは本田畑以外の栽培が許されたこととも言え
結局、民の間で広がっていっ風習に目をつぶって
喫煙もやや緩和ということを意味していました。
そんな青森の莨町の煙草売買の許可も、 幕府の許可が出て數年にならなかった時のタイミングでした。
元来、津軽地方は煙草の栽培は南部地方に比較して少いといいます。
我が県での煙草といえば南部の三戸は主産地である。
東郡小湊方面でも昭和に入って煙草の栽培が行われたといいます。
青森が開港され、莨町が新立し、煙草が売られるようになった頃は
日本海を通った西廻航路によつて運航されて来たのを売買する特権だったようです。
幕府が禁じていた煙草を、法の緩和があったにせよ、 公然と売買を許したのは青森町奉行の大なる英断だったと伝えられています。
莨町に煙草売買の特權が与えられたが、後のことは青森市沿革史を見ても詳しくは伝えられてはいません。
今の莨町小学校のところは元は湿地でした。尻無川という川もそこを通っていた場所なのですが
のちの青森町長になる柿崎忠兵衛が所有していたのを明治二十五年莨町小学校が新立されることになったので、 柿崎忠兵衛は附近一帯の土地を寄附したそうです。
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そんな莨町小学校から堤川に出ると、そこに中の島があり、明治五年まで昔は諏訪神社が鎮座していたといいます。
諏訪神社の参道は博労町からで、裏参道は莨町にあって、境内もまだ青森名勝の一つで、広くはなかったが整備され、鏡の井、逆手の桜があり、草花や藤、桜などが植えられ、社家楼上の眺望は特に良かった。季節には町内の文人墨客が一瓢をたずさえていって、花を楽しんでいったのだといいます。
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記事参考 青森町盛衰記 肴倉 弥八より作成
記事参考抜粋 諏訪神社沿革
引用・参考文献
『日本のたばこの歴史』(大阪京橋たばこセンターホームページ)
記事作成 鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)