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新町の真ん中に立ってた幻の銭湯


昔、八甲通りと言う通りがなかった頃
戦後の復興計画によって立ち退きをしたため
なくなってしまった銭湯が
ちょうど八甲通りと新町通りの交差点から
海手の辺りにあったんだそうです。
今は、その跡地は八甲通りの道路の一部だそうで
その名前を「白山湯」と言ったそうです。
青森の新町界隈では「成田の風呂屋」として親しまれていたそうです

白山湯の開業は大正初期
以前は市の中心として栄えた大町、米町辺りにあったのが移転

建物はと言うと
頭部に丸みをつけた唐破風の屋根とは違う
ごく普通のトタン屋根

当時を覚えている人の記録によれば
白山湯の煙突が空へ突き出ててよく目立ったと伝え
煙がたなびく、その様子が情緒豊かだったと言います。

当時あった建物といえば
鉄筋の建物はまだまだ少なく
あったのがマルは大洋漁業、石川商店や
青森銀行の前身の第五十九銀行、角弘、森永キャンディストア
松木屋、菊谷の二つのデパート
木造ですが三階建だと成田本店、三浦甘精堂、
仕出しと料理の永倉、柿源



なので新町の煙突といえば、実に目立って
いわばランドマーク的な建物だったようです。

右が男、左が女湯
男女の境に番台がちょっと高めに設置

当時の風呂代は子供が1銭、大人が2銭、女性の洗髪料がプラス1銭と時代を感じさせます。

それにしても1銭、2銭で入れるから銭湯というのは
知った言葉に、そんな些細なわけが潜んでいるのも面白いものです。

小さめと大きめ浴槽が2つあって
小さめの浴槽の壁に東京湯と書かれており
コレは東京の人間は気が短いから熱い湯を表している。
そんな洒落た意味があったそうです。

もう一つあるのがぬるめと言いながら結構熱い湯
子供も大人に混ざって我慢して入ってそうです。

ちなみに開店の合図の看板
わと書いた板が店頭に出され
コレは「わが書いた板」で「湧いた」という意味で
なんとも面白いです

さて
風呂の奥にあったのが

ありきたりではあったが

青空に聳えた富士と湖水と帆船の絵

まさに誰もが思い出に残る風呂屋の光景が、そこにあったそうです

とても愛されたお風呂さんだったのでしょう。

昔を懐かしむ方が
書籍にしたためて、相当数のページを費やしていたのが証です

そんな白山湯も、昭和20年7月28日の夜半から始まった大空襲にて焼失してしまいました。

新町から見える景色の中に
高い煙突の姿を思い浮かべる人も少なくなってしまった今

新町通りの真ん中にあった銭湯、白山湯の記憶も消えかかっているようです。



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記事編集/鈴木勇(サイゴン、わやわや店主)

記事参考

新町秘ストリー長谷敬生
青森の歴史(青森市発行)
新青森市史(中世)



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