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「興味がないこと」に興味を持つ方法ってあるの?

この数年、自分の中で「新しい知識」とまではいかないまでも「最近知ったこと」が全く増えていない、ということを感じています。

例えば、流行りの歌なんていうのはその最たるもので、よくテレビで放送されている「昭和・平成・令和のヒットメドレー!」のような番組を見ていると、昭和、平成までは聞いたことがある歌ばかりで、それこそ一緒に口ずさめるのに、令和になった途端、歌どころか歌手の名前すら初耳だったり。テレビに出ているということは、それこそ「流行って」いるのであって、知名度がそれなりにあるはずなのに、自分には顔や名前が分からないというのは、なんというか、負けている気分になってしまったりしますね。

歌に限らず、「今はこんなことが流行ってるのか?!」ということがだんだん増えてきたように思います。

どこかで必ず見たり聞いたりしたことがあるのに認識していない、要するに自分の興味が向いていないものがそこらじゅうにあるということ、興味が向いていないということは、その時の自分には必要ないものだと無意識に判断してしまっている、ということなのでしょうか。

勝ち負けはともかく「最近知ったこと」が全く増えていない、つまり新規インプットがぜんぜんできていないという状況に、実はけっこう危機感を感じていて、必要ないものが増えていく、興味がないことが増えていく、これって怖いことだなと思っています。

この「必要ないもの」「興味がないこと」に対して、なにか、こう、自分の意識を向けることはできないものでしょうか。本屋で何の本を買うでもなくぶらぶらしているとき、ふとタイトルであったり表紙であったり「ん?」と思うことはありますが、これもどこかで気になっていたんだろうし。

そもそも世の中に情報そのものは溢れかえっていて、ちょっと考えただけでもネットやテレビ、新聞、雑誌、いろいろな媒体から捌ききれない量の情報を浴びていることもあって、中には自分をひどく傷つけるような情報であったりするのだろうから、そんな中で情報を取捨選択して無意識にでも「必要ないこと」「興味がないこと」を捨てているのは、自分を守る本能のようなものなのかもしれない、と思ったり。

でも、必要ないことが増えて、興味がないことが増えて、どんどん情報を取捨選択していってしまうと、どんどん自分というものが薄っぺらくなっていくような気がしてしまって、これが怖いですね。

「必要ないこと」「興味がないこと」を言い換えると、きっと「無駄なこと」なのだと思います。

無駄を削ぎ落していくと何が残るのか、ひょっとしたら、その人のコアみたいなものなのかもしれない。

自分のコアが丸いのか四角いのか、大きいのか小さいのか、ぜんぜん分からないけれど、実は無駄なことがないとコアが育たないのだろうな。

必要なことを太陽の光、興味があることを水だとしたら、無駄なことはきっと「肥料」なんだと思います。太陽の光と水があればヒマワリは咲くかもしれないけれど、肥料があればもっと背が高く大輪の花を咲かせることができるかもしれない。

その肥料をどうやって自分に与えていくか、それを怠らずどうやって継続していくか。

「最近の流行りについていけない」なんていう愚痴から、なんだか深すぎるテーマを掘ってしまった気がするし、なんだか「いかに自分のコアを大きくすることができるか」「どうすれば自分の中のヒマワリを高く大きく咲かせることができるか」というアヤシイ自己啓発本のタイトルみたいなことを考えることになってしまいました。

けっきょく、この文章を書く時間くらい考えただけでは「必要ないこと」「興味がないこと」に自分の意識を向けるにはどうしたらいいのか、ピンとくるものはないけれど、こんなことを考えることすら興味がなくなってしまったら本当に怖いので、まだまだ「考えること」を続けていきたいものです。

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釋 輝信(しゃく きしん)
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