時というトンネルは暗闇か
時というトンネルを、ずっとくぐり続けている。
学校とか、課題とか、自分への不甲斐なさとか、いろんなことに嫌だ嫌だといいながら、結局どこをくぐっても嫌なことは見つかることに気づく。
でも、暗闇に見えるこの筒の中で運ばれているうちに、このトンネルは私を暗闇で包むためのものではないような気がしてきた。
もしかしたら、これはコンクリートなんかではないのかもしれない。私は目を瞑っているだけなのかもしれない。道のどこかで小さな花が咲いているかもしれない。木々の香りを乗せた風が吹いている気がする。実は遠くで誰かが待っているかもしれない。一緒に歩いているかもしれない。実は、立ち止まってもいいのかもしれない。
この世には絶対なんて無かった。他人が言ったこと全てが正解では無かった。
むしろ自分の感じたことが正解で、どれが不幸でどれが幸せか、決める権利が自分にはあった。自分には実は人権があった。私は笑ってもいいし、肩の力を抜いて集団の中にいてもいいし、生きてて当たり前という顔をしていてもよかった。(これを読んでくださっている人がもしもいれば、もちろんあなたもそうである。)
嫌なこともあるけれど、口角を上げただけでも視界が少し明るくなる、かもしれない。
ずっと未来の自分に幸福を譲り続けるような生活をしていたとき、私は死にたかった。失敗を誰よりも恐れていながら、あえて自分が傷つくような選択を繰り返し、やっぱり私はだめなんだと決めつけるための言い訳にした。行き先への扉の鍵を何重にも掛けた。自分を道の隅に追いやろうとしていた。そこは自分の場所なのに。
意外と何をやってもいい。実は、物事に意味があるかどうかですら自分で決めることができる。トンネルなんて、本当は無いのかもしれない。だって上を見れば今日しか見れない色の空が見えるから。遠くを見れば季節を映したような木々が揺れているから。