「語り手」が存在する神統記、存在しない創世記
西欧思想の根源の一つにキリスト教とともにギリシア思想があげられています。
既にこのシリーズでも、旧約聖書の冒頭にある天地創造の神話について取り上げていますが、ギリシャ神話での「天地創造」とどう違うのか、比較してみたいと思います。
岩波文庫版の「神統記(ヘシオドス)」と旧約聖書の創世記を比較してみると、まず気づくのは「語り手」の存在の有無です。
神統記は、このように始まっています。
「ヘリコン山の詩歌女神(ムウサ)たちの賛歌から歌いはじめよう」
歌っているのは、「わたし」こと、ヘシオドスです。
「彼女たちなのだ。
以前聖いヘリコン山の麓で羊らの世話をしていたこのわたしに麗しい歌を教えたたもうたのは」
つまり、羊飼いだったヘシオドスに「神統記」を語ったのは、詩歌女神(ムウサ)達だと言う設定です。
そして、
「このわたしに育ちのよい月桂樹の若枝を手折り、それを見事な杖として授けられ、わたしの身のうちに神の声を吹き込まれたのだ。
これから生ずることがらと昔起こったことらがらを賛め歌わせるように。」
と、ヘシオドスは詩歌女神(ムウサ)達から知らされた物語を語っていると言う形で、その後のお話が始まっていきます。
旧約聖書・創世記の書き出しは、「初めに神は天地を創造された」です。
ここには「語り手」についての設定はありません。
神話を読む場合、物語の内容ももちろん大事ですが、「語り手」設定がどのようになされているかと言う部分にも注目していきたいと思います。