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救い主を「神」だと考える思想とギリシャ・ローマ思想
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」
新約聖書コリント第一書に出てくる言葉です。
「代価を払って」と言うのは、奴隷について、誰かがその奴隷の値段を払って買い取ったと言う事です。
そして、その値段を払ったのが、イエス・キリストなんだ、それまでは罪の奴隷だったかもしれないけど、その奴隷状態から解放してもらえたんだから、神様の栄光を現すようにしなさいと言う理屈なわけです。
ところで、これまで二度に渡り、ご紹介してきたヴェルギウスの「牧歌」には興味深い表現だ出てきます。
「あの方は我が神、だから、わしはあの方の祭壇に」
ここで言う「あの方」はオクタヴィアーヌス、つまり、ローマ皇帝アウグストゥスの事です。
当時、長く続いたローマの内乱で農地が荒れ果てていました。
その対策として、一部の農地を没収し、戦役を終えた兵士達に再分配する政策が取られました。
ヴェルギウスの「農耕詩」は、兵士達に「帰農」を勧めるために書かれており、現代日本の耕作放棄地対策と半農半Xの関係を考える上でも興味深い作品です。
そのヴェルギウス自身の土地も没収の対象となりました。しかし、どうやら、没収対象とする区域を定める「計測の基準」に問題があったらしいのです。
そして、オクタヴィアーヌスの力で没収を取り消してもらう事ができました。
この牧歌の中で歌われている「平和なひととき」は、こうしてオクタヴィアーヌスのおかげで実現したヴェルギウス自身の生活の事を指しているらしいのです。
そして、この詩句は、その「平和なひととき」は「神様の賜物」だとしています。
そして、自分に平和なひとときをもたらしてくれたオクタヴィアーヌスは、自分にとって永遠の神であり、その祭壇に捧げものをすると言う事が述べられています。
冒頭に引用した新約聖書の聖句と比較してみると、
「自分を救ってくれた存在を『神』とする」
「その神を崇め、その神に仕える」
と言う論理が共通しています。
コリント第一書では、その「神」がローマ皇帝になるオクタヴィアーヌスでなく、イエス・キリストになっています。
ただ、「救い主」を「神」とすると言う思想の起源は、どうやらローマ世界の中にあったのかもしれません。