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「自分」とは何かと言う事への答えは科学から出てこない&宗教は柴門ふみさんの恋愛マンガだ>お笑い聖書 創世記(0-9)

えー、まぁ、そういうわけで、熱力学的にみた場合、生物、生命体ってのは、散逸構造=エネルギー流にさらされた動的な構造で、

言ってみれば、渦巻きみたいなものなんですが、
この渦巻き、物質なりエネルギーなりが入ってきては出ていく、

しかし、渦巻きは渦巻きとして持続し続ける、
ただ、無限に持続するわけじゃなくて、どこかで消滅するわけでして、

でまぁ、渦巻きが同じ渦巻きを複製すると言う保証はない、
普通の体細胞からガン細胞ができることもある、

まぁ、今までと違うものが出来たとして、それが生き残ったら、「進化」と呼ばれるんで、ガンと進化を区別することはできない

みたいな話をしてきたわけですが、

ここで、「自分」ってのは何かって話になるわけです。

だいぶ、以前なんですが、小学1年生のケンカの仲裁ってのをやったことがあります。

どうも、仮にAちゃんとBちゃんのケンカと言うことにしときますと、
Aちゃんは、その場にあった積み木だか、ブロックだかを使って、オモチャのおウチを作っていたらしい

それを見ていたBちゃんが、なんか窓のところがこうなってるといいみたいなことを言ったらしい、

で、Aちゃんは積み木だかブロックだか、何かを持ってきて、窓のところをBちゃんの意見に従って変えたらしい

それで、そのおウチが完成したら、Bちゃんは一緒に遊んでくれるんだと思っていたら、遊んでくれない・・・

それが気に入らないと言うことらしいって事情が分かったわけです。

でまぁ、僕は、AちゃんとBちゃんは違う人間でしょ
って言ったんですが、
そしたら、Aちゃんは、なんとBちゃんは宇宙人なの?

って言い出して、

吹き出したくなるのをこらえて、

じゃあ、Aちゃんはおうちのお父さんやおかあさんの事好き?って
聞きました。

大好きと言うので、うん、まぁ、お父さんやお母さんもAちゃんのこと大好きだと思うんだけど、

じゃあ、Aちゃんが病気で頭が痛くなる時、お父さんやお母さんは心配してくれるかもしれないけれども、

お父さんやお母さんの頭が痛くなるわけじゃないよね?

頭が痛くなるのは、あくまでもAちゃんだけだよね?

って話をしたら、
「違う人間」ってのが、宇宙人と言う意味ではなく、
「自分が頭が痛くなる時に、相手の頭は痛くならない」

と言うことらしいと理解したようなので、

でまぁ、BちゃんはAちゃんと違う人間だから、
Aちゃんが作っているおウチについて、
なんか意見を言ったかもしれないけど、
それとBちゃんが一緒に遊んでくれるかどうかは別の問題なんだよ

って言ったら、少し納得してくれたようでした。

まぁ、この間まで幼稚園か保育園に行っていたのが、
小学校に通うようになって、

自分とは違う他人ってものを考えなければならない
と言うAちゃんにとっては、初の体験だったと思うわけです。

でまぁ、この「自分が頭が痛くなる時、相手の頭は痛くならない」と言う意味での、自分と他人・・・

実は、コレ、科学で説明不可なんです。

科学で説明できるのは、あなたの頭が痛いのは、コレコレしかじかの理由で、病原菌だのウィルスだの、神経系だの、人体の仕組みだのってのを持ち出してきて、

でまぁ、AちゃんならAちゃんの頭が痛い理由はコレだって御託宣でして・・・

だけど、「私は頭が痛い」と感じている「私」・・・
まさに「我思う故に我有り」の「我」

まぁ、Bちゃんでも、Aちゃんのお父さんでもお母さんでもいいんですが、

Aちゃんが頭が痛い原因が、何かの病原菌だとして、同じ病原菌に感染したら、やっぱり頭が痛くなるかもしれませんが、

その痛さはBちゃんならBちゃんのもの、Aちゃんのお父さんのものならお父さんのものであって、Aちゃんの痛さではない・・・

でまぁ、生命ってのが渦巻きみたいなものだとして、
自分の体細胞が同じ体細胞を複製しないで、ガン細胞を作っちゃったとして、

「自分」と言う渦巻きが消滅するかもしれない、

まぁ、ガンは早期に発見して治療が可能で仮に寛解したとしても、
「自分」は永遠には存在しない、

どこかで消滅する・・・

自分が自分として、「痛い」と感じることはなくなる

自分は自分として、今生きていて、世界とかというものの中にいるらしい、

自分が見ている景色とか、自分が他人と関わって、好きだの嫌いだの思っているとか、

そういうことがなくなる状態・・・

でまぁ、そうなった時に「世界」って奴は存在するのか?

これをお釈迦様の弟子がお釈迦様に聞いたところ、

有名な毒矢のたとえ・・・
「毒矢に射られた人がいたとして、射た人の肌は何色だったのか?、
毒矢の羽根はなんという種類の鳥の羽根なのか?
そういう事が分からないうちは毒矢を抜いてはならないと言ったら、毒が回って死んでしまうであろう。
あなた(弟子)は私(お釈迦様)に弟子入りしたのは、そういう事を聞くためだったのか?
そうではないであろう」

まぁ、お釈迦様は、生老病死・・・
つまり、「自分」が生きている、「自分」が老いていく、「自分」が病気になる、「自分」が死ぬ・・・

って問題をお考えになっているうちに、悟りを開かれたわけですが、

要するに科学ができることは、毒矢を射た人の肌の色とか、毒矢の羽根の鳥の種類みたいなことを論じることだけなわけです。

もちろん、科学は、毒矢の毒の成分を分析することもできるかもしれない、
毒を解毒する解毒剤が何かを知ることができるかもしれない、

すると、毒矢に当たった人が死なないように解毒剤を与える事ができるかもしれない

しかし、毒矢の毒を解毒したとしても、いつかはその人は死ぬ・・・

つまり、広い意味では、ずっと毒矢が刺さったままの状態と同じで、「自分」から「毒矢」は抜けていない。

じゃあ、どうしたら、毒矢は抜けるのか?

ってところで登場してくるのが、

いわゆる1つの解脱だの永遠の生命だの救いだのって言われるお話でして・・・

でまぁ、だから科学と宗教は扱っている分野、領域、役割が違うんだ的なことを言う人がいるんですが、

僕は、こういう言い方は、あんまり好きになれないわけでして、

つまり、そういう風に機能的に分野・領域・役割が違うって話じゃなくて、

「問いの立て方」と言うものが違う・・・

えーまぁ、だから、キリスト教とか仏教とか、
そういうモノ以前に、

いわゆる柴門ふみさんの漫画に出てくる話・・・

「世間並みの恋愛も、世間並みの結婚も存在しないの!
存在するのは、アンタの恋愛、アンタの結婚、アンタの男でしょ!」

って理屈・・・

つまり、物事を機能的に分けて、科学の扱う分野・領域・役割はこうだけど、宗教の扱う分野・領域・役割はこうだなんてことじゃないわけでして、

私がこの男を好きなんだから、どうやってゲットするかとかって時には、
「世間並み」って奴は吹っ飛ぶ

そういう意味で暴力的・・・

物理的に相手を殴る蹴るするんじゃないんですが、
「世間並み」って奴を丸ごと破壊して、

何としてでも、自分の「好き」を実現するんだ、
この男を落とすんだ、結ばれるんだ的なこと、

強引と言われようが、非常識と言われようが、
毒矢を引き抜いて、捨ててしまう、

そういう意味で「暴力的」なのが宗教でして・・・

まぁ、こういう意味での暴力性があれば、
仮にキリスト教だの仏教だの、教会だのお寺だの、
聖書だのお経だの、

そういうものが何もなくても、柴門ふみさんの恋愛マンガだろうと、空飛ぶスパゲティモンスターだろうと、
イワシの頭だろうと・・・

それは立派な宗教でして・・・

逆に言うと、こういう意味での暴力性がないのは、
立派な教会やお寺があって、聖書だかお経だか読んでても、
それは「宗教」じゃない、

なんかお上品なお茶会かなんかと同じでして、

例の毛沢東さんは、革命と言うのは、お茶会みたいなお上品なものじゃないんだ、1つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動なんだと仰られたんですが、

そういう意味では、渡辺美里さん以上に、激烈なマイ・レボリューションを伴うのが、宗教ってものでして・・・


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