
イエス様、裏切ったオレが悪かった。どうか成仏してくれ。ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・
夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
新約聖書の福音書と言うのは、イエス・キリストについての何らかの伝承と言うのが初期のキリスト教会にあって、まぁ、そういうものをまとめて編集してできたんだそうです。
でまぁ、今回取り上げますマタイ福音書の湖の上を歩くイエス・・・まぁ、聖書の奇跡物語の一つとも言えなくはないんですが、
これ、マタイ福音書では、イエス・キリストが十字架に掛かってお亡くなりになる前、つまり、ご生前のお話として出ているわけですが、
これ、伝承、と言うか、ペテロの中では、本当は、イエス・キリストが十字架に掛かってから、つまり、死後の体験だったんじゃないかと思うわけです。
なぜかと言うと、ペテロは、イエス・キリストにどこまでもついていきますとかって言ってたクセに、いざ、イエス・キリストが逮捕されたら、あんな人知りませんと言って否定、
その時、「いや、あなた(ペテロ)は夜明けに鶏が鳴く前に私(イエス・キリスト)を知らないと言うであろう」と言う言葉を思い出して、
激しく泣いたと福音書に書いてあるわけです。
まぁ、なんでもない時は、最後までついていきますって言っておきながら、実際、イエス・キリストが逮捕されちゃって、十字架につけられるかもしれないってなると、
いや、あんな人シ・リ・マ・セ・ンって、
滝川クリステルが五輪招致のプレゼンでオ・モ・テ・ナ・シってやったように(かなり古いギャグですみません・・・
m(・・)m
って、
まぁ、そこで、イエス・キリストがいざとなれば、アンタ、オレのことなんか知らないって言うだろうなって言ってた言葉を思い出して、
激しく泣いた・・・
しかし、激しく泣いたものの、
イエス・キリストは十字架で殺されてしまった。
裏切ったことをどんなに後悔し泣いても、
もう元に戻らない・・・
ここでペテロは、傷心のまま、戻るところは、ガリラヤ湖でしかない・・・
つまり、ペテロは元々、ガリラヤ湖で漁師をしていたんですが、
ここで、「あなたは、魚を取る漁師だったが、今後は人間を取る漁師にしてあげよう」とイエス・キリストにスカウトされて、ついていくわけです。
でまぁ、このスカウトされた時のペテロの気持ちってのを考えると、一種独特だったんじゃないかと思います。
前にアベマTVでポップティーンカバーガール戦争・・・つまり、雑誌の表紙を飾るモデルの座争奪戦で、お尻相撲ってのをやっていて、
まあ、台の上に二人、お尻をくっつける形で並んで立ち、相手をお尻で押して押し出した方が勝ち・・・
って、負けた側が、勝った子はお尻が硬かったって感想を言ってましたが、
雑誌の表紙を飾るために、日夜、肉体に磨きをかけるべく、トレーニングに励んだ結果が、「お尻の硬さ」、まあ、相手をお尻で押して、押し出せるぐらいの硬さがあるお尻、それを作り上げることが、お尻のツンと上がった角度を作り上げるわけでして、
まあ、お尻相撲やってる子もどっかで「モデルになりませんか」ってスカウトされたんだとして・・・
そのスカウトに応じた気持ちってのと、「人間を取る漁師」とやらになりませんかって言われた時のペテロの気持ち、
それはちょっと違うかもしれません・・・
まぁ、イエス・キリストが活動を始めた直後、悪霊を追い出すのを見た人々が「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く」と驚いて、評判が隅々にまで広がったってマルコ福音書にあるわけですが、
「人間を取る漁師にしてあげる」ってペテロがスカウトされたのは、マルコ福音書の記述によれば、それより前、
つまり、イエス・キリストの評判が高まる前でして、
だから、評判だからついて行ったってのとは違う、
まぁ、ビビビとくる何かがあって、ついて行ったんでしょうねぇ・・・
でまぁ、ビビビと感じる何かがあってついて行った、
そして、最後までついていくって言ったものの、いざとなったら「そんな人知りません」と言ってしまった・・・
それで、イエス・キリストは十字架に掛けられて死んでしまった。
どんなに後悔しても泣いても、元に戻らない
ペテロとしては、スカウトされてビビビと来てついて行ってから今までのことを思い返して、
しかし、もう一度、ガリラヤ湖に戻って漁師をする以外しかたない、
そういう状態でガリラヤ湖に戻って漁を始めたら、船から水の上にイエス・キリストが見えた・・・
亡霊だぁ、オレが裏切ったから化けてでたんだ、
ナンマンダブ、ナンマンダブ、裏切ったオレが悪かった、
どうかイエス様、成仏してくれ・・・
まぁ、当時のこのへんの人たちは、アラム語を話していたそうですし、
ナンマンダブってのは、南無阿弥陀仏のことでして、
そういうのが出てくるのは、法然上人以降で
まぁ、もちろん、ペテロはナンマンダブとは言わなかったと思いますが、
日本語的に言うなら、ここは、やっぱり、ナンマンダブ、ナンマンダブ、裏切ったオレが悪かった、どうか成仏してくれ的な感じだったんだと思います。
で、ところが、イエス・キリストは、どうやら幽霊ではないらしい・・・
ここでペテロは、え?、まさか、幽霊じゃない?、生きている?、でも、十字架で死んだんじゃ?
もうワケがわからない気持ちで、「イエス様、あなたなんですか、そちらに行ってもいいですか?」になった・・・
そして、気付いた水の上を歩き出してた・・・
ところがふと気づくと自分が水の上を歩いている・・・
わ、なんで?
自分は幽霊にひかれて歩き出して、水に沈んでしまう?
助けてくれ・・・助けてください、イエス様、恨まないでください。ナンマンダブ、ナンマンダブ。
まぁ、もちろん、実際には、ここでもナンマンダブとは言わなかったと思いますが、
日本語的に言えば、もう水の中で溺れそうな中、やっぱり、「恨まないでくれ、助けてくれ、ナンマンダブ、ナンマンダブ」的な状態だったんだと思います。
でまぁ、そこで、イエス・キリストが手を伸ばして引き上げてくれ、
そこでイエス・キリストが「信仰が薄いやつだなぁ」と言った・・・
ペテロとしては、自分が「こんな人しりません」と裏切ったことを責められるわけじゃない、
たたられるわけでもない、
逆に手を引いて水から引き上げてくれた、
そして、「信仰がうすいなぁ」と言われた。
そう、自分はいざとなったら「こんな人知りません」と言う信仰が薄い人間、
そのことを改めて自覚させられつつ、
その信仰が薄い自分が助けられて生きている、
そこで、助けられた船の上で、また、ありがたや、ありがたや、ナンマンダブとイエス・キリストを伏し拝む・・・
まぁ、ここでも、実際には、ペテロはナンマンダブとは言っていないと思いますが、
やっぱり、日本語的には、ナンマンダブ、ナンマンダブ、ありがたや、ありがたや的なことだったんじゃないかと思います。
でまぁ、イエス・キリストの予言・・・つまり、「あなた(ペテロ)は鶏が鳴く前に三度、私のことを知らないと言うであろう」と言う言葉どおり、
ペテロは、イエス・キリストのことを三度「こんな人知りません」と言ったと福音書にあるわけですが、
今度は、
ナンマンダブ、ナンマンダブ、裏切ったオレが悪かったどうか成仏してくれ
ナンマンダブ、ナンマンダブ、溺れそうだ、助けてくれ、オレを恨まないでくれ、
そして、助かった、生きている、ナンマンダブ、ナンマンダブ、ありがたや、ありがたや
と三度、「ナンマンダブ」を唱えた
と言うわけで、ペテロが先に、三度「こんな人(イエス・キリストのこと)知りません」
と言ったのに対応して、
今度は、三度、日本語的に言えば「イエス様、ナンマンダブ」みたいなことを言った
と言うのが、例の「復活」の真相だったんじゃないかと思うわけです。
そんな馬鹿な、死んだ人が復活するわけないじゃないか
まぁ、科学的にはそうかもしれないですが、
ペテロは実際に水の上のイエス・キリストを見て、幽霊だぁ、化けてでないでくれぇ、と思い、
次には、え?まさか、生きている?と思い、湖の上を歩いて、イエス・キリストの方に行こうとして、水に溺れかかって、助けてくれぇと叫び、
イエス・キリストの手で、水から引き上げられて、
裏切ったことを責められるわけでもたたられるわけでもなく、
ただ、そこで「信仰の薄いやつだなぁ」と言われ、
そこで、ありがたや、ありがたやとなった・・・
たぶん、福音書ってのは、実在した玄奘法師がシルクロード歩いてお経を取りに行ったって史実に、サル・ブタ・カッパの怪物が登場してって西遊記みたいに、
実在したイエスと言う人物に奇跡物語がくっついた「史実+おヒレ」構造で出来ていない、
そうじゃなくて、ペテロの三度の「ナンマンダブ」体験、イエス・キリストは死んでない、マジで復活してる!、
ってのを基礎に成立しているものなんじゃないかと思うわけです。