使う人も使わない人も田園景観を守るためにしている
夕暮れが近づいてきた見沼菜園クラブ。
そろそろ帰ろうかな?と思っていた頃、土手沿いの道に軽トラ止めて、なにやら土手で採っているオッチャンがいました。
あれ?、もう菜の花の季節は終わったし、ツクシも硬くなってきてるし、今頃なんだろう?
「何か採れますか?」って声を掛けてみたら、
「ヨモギ採ってる」ってお返事が返ってきました。
土手沿いの道は犬の散歩する人も多いので、
「そこ、イヌのおしっこかかってるよ」と言ったら、
「いや、食べるんじゃないから大丈夫」
「何に使うの?」
「お節句だから、ショウブと一緒にお風呂に入れる」
実は、日中、見沼菜園クラブでは、雑草と化したヨモギをかなり引き抜きました。
ヨモギは、地上部が冬枯れしても地下茎が冬越しし、春になると芽吹きます。夏場は人の背丈を越えるぐらいに茂り、農作業の邪魔になります。
夏に草刈り機で刈っても地下茎が残ります。(他の草がなくなってもヨモギの地下茎は生長していくので、草刈り機を使えば使うほど「ヨモギランド」化していくことになります。
ですから、多少手間でも、今の時季に地下茎ごと、ヨモギを引き抜いておいた方が、後々楽なのです。
「ウチの畑でたくさん抜いたから、あれなら、イヌのおしっこかかってないよ、食べ物じゃないにしても、そっちの方がいいよ、昼間抜いたばかりだから、まだ、あまりしおれてないよ、アレ持ってきなよ」
って昼間抜いたヨモギを渡そうとしたら、
「いや、もらうんだったら、ヨモギ抜いていく」って
まだ残っていたヨモギを抜いてくれるお手伝いを始めてくれました。
「除草剤使わないの?」と聞いてきたので、
「まあ、特別なやり方してるから」と答えました。
オッチャン「そうかい」と言って、
後は世間話しながら、二人でヨモギ抜き。
おかげで、かなり水路沿いに生えていたヨモギがなくなりました。
オッチャンはヨモギをムシロにくるんで軽トラに乗せます。
「また、遊びに来てね」
「うん、近所だから」とお別れしました。
僕は「たんぽぽ農法ってなに?、農薬は使ってるの?」と聞かれたら、「使ってないです」ってお返事しますが、
自分からあんまり無農薬だと主張はしません。
これについては、新約聖書の中で聖パウロが「偶像に捧げた肉」を食べていいかと言う事について述べた事を応用すればよいと思っています。
ギリシャ・ローマは多神教の世界で、神殿で様々な神様に捧げられたお肉の「お下がり」が市場で販売されていたようです。
ローマのキリスト教徒達の間で、そういうものを食べてよいかと言う事についての議論があったようです。
聖パウロは、偶像=本当の神でないと言うなら、そもそも、「偶像に捧げた肉」は単なる肉に過ぎず、食べてもいいじゃないか、ただ、パウロ自身が食べているのを見て、そういう風に考える事が出来ない人がつまづくといけないから、自分は食べない
つまり、原理的にはドッチもありなんだけど、コダワリを持つ人への「配慮」として食べないようにすると言っているわけです。
そして、「食べる者は主のために食べるのであり、食べない者は主のために食べないのである」として、
「食べる人」、「食べない人」、両者の協調を説いています。
この聖パウロの言葉の「主」と言うのを「田園景観」に置き換えれば、農薬を使う人は、田園景観を守るために使うし、使わない人は田園景観を守るために使わないのだと言う事になります。
耕作放棄地が増えて、田園景観が荒れていく中、とにかく、農業をしようとしている、その際、農業経営のあり方として農薬使用の農業をする人もいるし、無農薬の人もいる、
どちらにしても、その人が農業をすることによって、その場所の田園景観が守られているわけです。
相手の選択を認めた上で、自分としてはこっちを選ぶと言う事だと思います。
そういう態度でいれば、自分と違う選択をしている人とも協力関係が持てるわけです。
2週間予報は、ゴールデンウィーク後半の5/6以後、雨が降らない日が3日のみとしています。
雨がちのまま、5月下旬の「梅雨の走り」に接続する可能性が高くなってきました。そもそも「梅雨の走り」期にどの程度雨が降るのでしょうか?
どうも「梅雨」と言う概念があやしくなってきているように思います。
ツルナの芽出しは失敗したようです。ちゃんと育たないようならまき直しをしようかなと思っています。サツマイモの植付けとサニーレタス、セロリの植付けをしないといけません。
畝間に冬越ししたスープセロリが生えているのを確認しました。周りの草を取って、畝間をスープセロリが占有し、他の草が生える余地がないようにして、その場所を維持したいと思います。
基本的にたんぽぽ農法は、手間とコストを抑えて、「楽に」半農生活ができるようにするための方法です。