モノがやり取りされる時、モノの「霊」もやり取りされていると言う思想は現代社会でも生きている

「ハウは生まれたところ、森やクランの聖地、あるいはその所有者のところに帰りたがるのである。タオンガないしハウはそれ自体一種の個体であり、一連の保有者が祝宴、祝祭、贈与によって、同等あるいはそれ以上の価値の財産、タオンガ、所有物、労働、交易をお返ししない限り、彼らにつきまとう。

そうしたお返しによって、その贈与者は、最後の受贈者になる最初の贈与者に対して権威と力を持つようになる」

(マルセル・モース「贈与論」ちくま学芸文庫)

誰かが「私」に与えてくれた「タオンガ(品物)」がハウと言う「霊」を持っている、マオリ族の思想について、贈与論の分析が続きます。

今回紹介した贈与論の記述から「タオンガ=品物」が持っている「ハウ=霊」が、いくつかの特徴を持つ事がわかります。

まず、ハウ=霊は、生まれたところや所有者のところに帰りたがると言うこと。

モノをもらった、だから、もらった「私」のモノと言うわけではなく、その「モノ」の霊はモノをあげた人のものであり、その霊は元々、その品物を持っていた人のところに帰ろうとすると言うわけです。

この考えは、未開人の文化であり、現代人からは突飛なものかと言うとそうでもないのです。

例えば、僕は、ある時、ある人、仮にAさんと呼んでおきますが、別な人Bさんを紹介した事があります。

AさんはBさんと知り合った結果、ある場所でイベントを開催出来るようになりました。Aさんは、増山さんから頂いたご縁なので、そのイベントで野菜の販売をして下さいと言ってきました。

もちろん、Bさんは、僕の「所有物」ではありませんが、Aさんからみると、Bさんとの「縁」を僕からもらった形になっています。

その縁を貰ったことのお返しをしないとAさんとしては「『気』が済まない」、だから、僕に野菜の販売の場を提供すると言う形で「お返し」をしようとしたんだと思います。

この「『気』が済まない」のはなぜか?と言うと、「ハウ理論(?)」では、その「『気』が済まない」の「気」こそ、貰った「縁」の霊である、

お返しをしないうちは、その霊が縁を貰ったAさんに「つきまとっている」ので、「『気』が済まない」感じがする、

しかし、Aさんが僕に野菜の販売の場を提供すると言う形で、縁の「霊」をお返しすれば、僕はそういう場を提供してもらったと言うことでAさんに感謝するようになる、

「そうしたお返しによって、その贈与者(この場合、Aさん)は、最後の受贈者になる最初の贈与者(この場合、僕)に対して権威と力を持つようになる」

と言うことなわけです。

このようにモノ(縁や労働などを含む)のやり取りを通じて、実は、そのモノの「ハウ(霊)」がやり取りしており、その「霊」は、最初にモノをあげた人が所有していると言う思想は、現代の人間関係の中でも生きていると言うことが出来ます。



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