ショートショート【たくさん】
うちのとなりでひとり暮らしていたおじいさんが昨日から眠ったまま動かない。おじいさんの顔や手はしわくちゃで少ないかみの毛はまっ白で、お昼もほとんど座ったまま寝てて、何を聞いても答えてくれて、面白い話しをたくさん知ってて、楽しい遊びを教えてくれた。
お母さんは、「おじいさんは死んだのよ」といった。
「死ぬってどういうこと?」
「死ぬっていうのはこの世界から別の世界にいくってことよ」
「なぜおじいさんは死んでしまったの?」
「おじいさんはたくさんの朝と夜を見たの。雪がふり、雪がとけ、きれいな花が咲きはじめるのもたくさん見たの。そして、たくさん泣いて、たくさん笑ったの。そういう人たちのは別の世界に行ってまたそこで生活するの」
「ぼくも、お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、妹も、みんないつか死ぬの?」
「そうよ、いつかみんな別の世界にいくの」
ぼくは自分が母さんや父さん、お兄ちゃんや妹と別れてぼくだけ別の世界へ行くのを想像した。いやだ。こわい。
「お母さん、ぼく、死にたくない」
「あら、あら、大丈夫よ。ふふふ。あなたはまだ死んだりしないわ。あなたはこれからたくさん泣いて、たくさん笑わないといけないの。だから安心していいのよ」
お母さんはそういってぼくを抱きしめてくれたけど、ぼくは思った。たくさん泣いて笑ったらぼくも死ぬ。だったらぼくは泣くのをがまんしよう。笑わないようにもするぞ。朝や夜からは逃げられないけど、花なんて見ない。そうすればお母さんやみんなといつまでもいっしょにいられるんだ......
ああ、夢だったのか。私は目覚めようと思いゆっくり瞼を開けた。一人の女性が私の視界に入った。髪の毛は白く、顔にはたくさんの皺がある。誰だろう。目線を右にやると、そこには若い男性と女性が一人ずついた。母さんと兄さん、それに妹だ。どうしたんだろうみんな集まってきて。私は起きあがろうとしたが体に力が入らない。
「ずっと目を開けないから心配してたのよ」頭の白い女性が言った。それに答えようとして声を出そうとしたが喉からは空気が漏れるだけで音にならない。
「父さん」と右側にいる男性がいう。
「がんばって」とその横の女性が私の手を握る。
ぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。私の家族だ。白髪の女性は私の妻で二人は私の子。
私は了解した。もうすぐ死ぬのだ。私はしばらく眠っていた。最後の別れを伝えるために目が覚めたのか。私は妻の顔を見つめた。妻の顔は不安そうに見えた。私は妻に笑っていて欲しいと思った。この人はとてもやさしくて美しい人だ。
おじいさんが死んでからのぼくはケガをしたり病気になっても泣かなかった。楽しくても笑わないようにした。雪が溶けて花が咲きはじめると目を伏せて歩いた。みんなと別れて別世界に行かずにすむように頑張ってきた。
でも、暖かくなってきたある日、全てが変わった。ぼくは一人の女性と出会ってしまった。彼女のまわりにはたくさんの花が咲いていて、彼女はそれを摘んでいた。綺麗な人だ。ぼくは彼女に見とれてしまった。
ぼくが見つめているのに気づいた彼女はちょっとだけ驚いた顔をして、そのあとすぐに笑ってくれた。ぼくは自然と笑い返していた。ずっとずっと笑顔なんてしてなかったのに驚くほど素直に笑えた。花に囲まれた彼女の笑顔をずっと見ていたいと思った。ぼくは笑顔で花を摘む彼女に近づいて声をかけた......
「あなた。大丈夫ですか? わかりますか?」
妻の声だ。私は自然と笑顔になる。彼女と一緒にいる時間にはたくさんの笑顔があった。私は彼女の目を見つめてうなずいた。
子どもたちの方に目をうつす。ゆっくりと絞り出すようにいった。
「大切な人といっしょに美しいものにたくさん触れなさい。たくさん泣きなさい。たくさん笑いなさい。そうして別の世界に行くときになったら、お父さんはそこで待ってるからね」
私はもう一度妻の方に向いて、ありがとうといった。もちろん笑いながら。妻の目には涙があった。優しい瞳をしていた。自然と瞼が閉じてゆく。隣のおじいさんとお父さんとお母さんが手を振っているのが見えた。
ー 終わり ー