「『やまなし』の深層を探る:クラムボンの正体と生命の循環」
リクエスト投稿になります!
クラムボンの謎に迫るリクエストを頂きました😌
どうぞ、ごゆっくり✨
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【クラムボンの謎について】
宮沢賢治の「やまなし」に登場する「クラムボン」は、多くの解釈が存在する謎めいた存在です。以下にいくつかの代表的な説を紹介します。
蟹の泡説:
クラムボンは蟹が吐く泡を指しているという説があります。蟹の子供たちが泡を吐きながら「クラムボンは笑ったよ」「クラムボンは死んだよ」と話す場面があり、泡が弾ける様子を表現していると考えられます。光説:
クラムボンは水中で反射する光のことを指しているという説もあります。水面に映る光が揺らめく様子が、クラムボンという言葉で表現されているのかもしれません。蟹語説:
クラムボンは蟹たちの間で使われる特別な言葉、つまり「蟹語」であり、具体的な意味を持たないという説もあります。この説では、クラムボンは蟹たちの世界でのみ通じる言葉であり、読者がその意味を特定する必要はないとされています。解釈しない説:
クラムボンはあえて解釈しない方が良いという考え方もあります。宮沢賢治は読者に自由な想像を促すために、あえて曖昧な表現を用いたのではないかという見方です。
宮沢賢治の作品は、読者に多くの解釈の余地を残すことで、個々の心に響く独特の魅力を持っています。クラムボンの正体を一つに絞るのではなく、自分なりの解釈を楽しむことが、賢治の作品を味わう醍醐味かもしれません。
【この作品は読者に何を伝えたかったのか?】
宮沢賢治の『やまなし』は、読者に深いメッセージを伝えています。
死と生の対比
『やまなし』は、五月と十二月の二つの場面で構成されています。五月の場面では、カニの兄弟がクラムボンについて話し、魚がカワセミに捕らえられるシーンが描かれます。
一方、十二月の場面では、やまなしが川に落ちてくるシーンが描かれます。この二つの場面は、昼と夜、生と死といった対比が巧妙に描かれており、物語に深みを与えています。
自然の循環と生命の尊さ
やまなし(山梨)は、物語の中で重要な象徴として登場します。やまなしが川に落ちてくるシーンは、生命の循環や自然の恵みを象徴していると考えられます。また、やまなしが酒になるまで待つという描写は、時間の経過とともに変化する自然の美しさを表現しているとも言えます。
妹トシの死との関連
宮沢賢治が『やまなし』を書いた時期は、彼の妹トシが亡くなった直後でした。このため、物語には死と生のテーマが色濃く反映されていると考えられます。特に、五月の場面での暗い雰囲気と十二月の場面での明るい雰囲気の対比は、賢治の心情を反映しているとも言われています。
助け合いと自己犠牲
やまなしという題名には、助け合いや自己犠牲の精神が込められていると考えられます。カワセミのような恐怖もある一方で、やまなしのような助け合いも存在することを示しています。宮沢賢治は、この物語を通じて、奪うことではなく与えることの大切さを訴えているのかもしれません。
『やまなし』は、自然の美しさと生命の尊さ、そして助け合いの精神を描いた作品です。これらのテーマが、読者の心に深く響くことでしょう。
P.S.
いかがでしたでしょうか。
このような回答になりました😌✨
クラムボンについては、あえて解釈しないという説も、あながち無いとは言い切れませんね🤔
読者の方によって好きに想像させてもらって構わないというのも、もしかしたら含まれているのかもしれません。
今だったらSNSを駆使したり、インタビューなどであれは何を現しているのですか?って普通に訊かれる時代でしょうけども、この時代はネット環境も整っていないでしょうし、本人に確認取れない以上、真実は神のみぞ知るといったところでしょうか😌
自分としては、この記事に限らず色んな説を読んで頂き、恐らくこれだろうなと感じる説を信じてもらっても良いのかなとも思ったりもします。
参考になれば幸いです✨
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