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無低日記 一日目
これまで軽躁状態になった末に、家出を試みた事が何度かございました。お恥ずかしい話です。
当時の私はまだ未成年で、出来る事なんて限られていました。
親戚の家に居候を続けるわけにもいかない。けれども、実家に居たら狂ってしまいそうで。
介護疲れが限界を超えてしまったのだろう。
これ以上、置かれた環境で今の自分に何が出来るのだろうか…。分からなくなるばかりだ。
やれる事はすべてやり尽くしてしまった。すべて無駄でしたが。
遠くへ行きたいと願い、二度と目覚めませんように、と祈りながら眠りに就く。そんな毎日が続いていました。
その頃には、主治医から幾度となく入院を勧められていたのだが、とにかく上手く躱すしかない。
なんせ、金がないのです。
入院するべき病状であるのは、私だって分かっている。
早く、此処から逃げ出したくて堪らないのです。
身辺整理を粛々と進めながら、心の中でそう呟いた。
部屋もさっぱり片付けて、エレキギターも売り飛ばした。大した金にはならなかったが。
まあいいか…と泡銭を握り締め、ロープ等を購入した。
帰宅後、それらを直ぐにキャリーケースに入れた。
そうして「友達の家に泊まる」と嘘を吐き、家を出ました。
振り返ると、どれもこれもただの現実逃避でしかない。
「自分探しの旅」とか言ってしまえば聞こえはいいでしょうが…。
すべてがどうでもよくなってしまった、というのが本音で。
そんな感じで、自分探しの旅?とやらが始まりました。
人生を終えるための場所を探す…というよろしくない動機もありつつ。
気付けば私は、無料低額宿泊所という名の、「無料」なのか「低額」なのかハッキリしない場所へ向かっていた。
悲しい事に、そこへ向かうのが決定するまでの記憶がすこんと抜けてしまっている。
ハイテンションでキャリーケースをゴロゴロしながら役所へ向かう以前の記憶なんて、砕け散って粉々です。
恐らく、当時の私は軽躁状態の真っ只中にいたという事。…今分かっているのは、それくらいです。
その宿泊所は、東京とはいえど非常に辺鄙な場所に在る。最寄り駅まで徒歩40分はかかるそう。
あのショボい駅まで40分とは…!と、ウッカリ言いそうになった。慌てて水を飲んで誤魔化した。
それでも、贅沢を言う気も起きませんでした。というか、文句など言えるような立場ではない。それは百も承知ですから…。
役所には少々無理を言ってこのような措置を取ってもらった手前、引き返すという選択肢なんてあり得ません。
引き返せないという事実に、より一層ワクワクしてまいりました。
興奮と少しの不安を乗せて、車は走っていく。
車中で職員と会話を交わしましたが、終始上の空でした。
そうして、あっという間に到着。
まだこの時点ではルンルンです。呑気なもんだ…。
部屋に関しては、所謂「ドヤ」を想像してもらえると分かりやすいかと。広さは、およそ3畳といったところでしょう。
一応、各々個室は用意されていました。
個室とはいっても、元は一つだった部屋をベニヤ板の壁で半分に仕切られているだけの造りである事は、素人目でも直ぐに判った。
今となっては商売上手だな、とただただ感心するばかり。
おバカな小娘は、まんまと騙されちゃいました。
この一件を経て、私の人生のスローガンは
〝思い立ったが吉日〟から〝アンチ・思い立ったが吉日〟
へと、上書きされました。
…「家賃は月10万円。諸費用が引かれ手元に残るのは月2万だね。あとは、自室の鍵は必ず掛けるように!」………。
恐らく住人ではなさそうだが、ここの事情に関してやけに詳しい女性。
この方から、ひと通り説明を受ける。
「アンタ若いのに、こんな所に来ちゃって大変ね~。」
などといった世間話から始まり、
「〇〇室の人には気をつけて、あの人ネ、少し頭おかしいのよ…。」
みたいな事までコッソリと伝えてもらったりもした。
(〇〇室か…同じフロアだし気を付けろと言われても…)
(いや〜こんなにも辺鄙な場所で、3畳で家賃10万なんて…ぷぷっ)
とか思いつつ、私は「はい!」とニコニコ愛想よく返事をした。
(然しながら妙に詳しいな、詳しすぎる。オーナーではないらしいし何者なんだ、このオバちゃんは…)
と考えながら、お得意の作り笑顔を顔に貼り付けてその後も話を聞いておりました。
すると、この方も以前ここでしばらく生活を送っていたという事を、突如、打ち明けてくれた。
そんなに私の表情から疑問符が滲み出ていたのかしら…?とほんの少しだけ申し訳なくなる。
薬物で色々あり、シャバに出てきたが住むあてもなく此処へ辿り着いた、と。
他にも色々な話を詳しく聞かせてもらいました。
どれも結構面白かったのですが、書くのは控えておきます(不謹慎な小娘で申し訳ない…)。
兎に角、此処に住まう人たちの事情は様々。
この方みたく、刑務所上がりの人。DV被害に遭いシェルターを経て此処へ来た人。などなど…
高齢で身寄りも居ない事から家を借りられず、老人ホームの利用も難しいという人もいた。
こんな場所で最期を迎えるのかもしれないのか、と考えるとなんとも複雑な気持ちになる。
説明も終わり、「今日は疲れたでしょうから、ゆっくりしなさいよ。」と背中をポンと叩かれた。
このオバちゃん。包容力があるというか、とっても頼もしい方でした。基本的に、語気は強かったけれど…。
お礼を告げて、オバちゃんを見送った。その後、オバちゃんが作ってくれた夕飯をいただきました。
ごはん美味しかった…温かくて、優しい味です。
一人になってしまった。さてさて、どうしましょうか。
荷解きを行う体力など、流石にもう残っておりませんし…。
快活でよく喋るオバちゃんが居ない部屋は、静かすぎました。
少しだけ淋しいような…気のせいか。
音楽を聴く気にもなれず、なんとなくテレビを付けましたが…退屈だ。
でも無音だと尚更、侘しい気持ちになってきますし。
テレビを適当なチャンネルに合わせ、しばらく垂れ流していました。
すると、テレビから聴き馴染みのある歌声が聴こえてくる。一瞬で曽我部さんだと判りました。
興奮と緊張で張り詰めていた精神が、少しずつ弛緩していくような感覚になる。
この人が紡ぐ音楽に幾度となく救われてきた人生だった。
最期に一度でいいからサニーデイを生で観たかったよ…。
などと考えていたら、少しだけ泣いてしまいました。
その後なんとか生き延びて、生で観たバンド一位になるなんてね。
この頃の私には知る由もございませんから…。
というか未だ、ロープはキャリーケースの中で眠っているというのに。
まったく、私ったら気が早いです。
その後。ローテーブル、布団一式、テレビが置かれている部屋をボーっと眺めてみました。
入った瞬間から思っていたことではあるが、お世辞にも清潔とは言いがたい。
壁やカーペットには薄茶色の謎のシミが無数にあります。
カーペットが二重に敷かれている場所も見つけ、めくろうと手を伸ばしてみる。
だが、急にそこで冷静になり、そっとしておく事にした。
私がしたいのは肝試しではなく、生活だ。
そんな事を己に言い聞かせながら寝転がると、天井に取り付けられた頑丈そうなフックが目に入る。
それが、妙に気になってしまう。
洗濯物を干すために誰かが設置したのだろうという事は、おバカな私でも直ぐに分かりました。
けれども、よりにもよってこの狭い部屋で最も乾きづらそうな場所に設置してあるのです。何故だろう…。
この部屋には、3畳には釣り合わないエアコンだってあるというのに、それを避けるようにして…。謎は深まるばかりです。
しかも、窓からもドアからもちょうど死角になりそうな位置に取り付けてある。
うむ…。
私は先程のしおりを手に取り、そこに記載されていた住所をメモ帳に残しました。
そして悪趣味だとは思いつつ…某サイトを開き、その住所を入力してみる事に。
直ぐに炎のマークが目に入る。
驚きもせず、ただただ後ろめたさだけが脳にへばりつく。
ザラっとした罪悪感を残したまま、そっとサイトを閉じました。
少し、外の空気を吸おうと窓を開ける。
この窓が思いの外かなり開くので、心が躍り…少し驚いてしまいました。
地面からも充分に離れている。
目の前にあったパチンコ屋の駐車場を見ながら「赤いなー」とだけ呟き、窓を閉めました。
多分、パチ屋を見て最初に思い浮かぶ感想としてはかなりズレている気がする。
どうやら人間は、疲れ果てると聴覚が鈍麻するみたいです。科学的根拠なんぞございませんが…。
あともう一つ。
ローテーブルの上には、5年前の日付が記載されたスポーツ新聞がポツンと置かれていました。
置き土産でしょうか?これを読んでどうしろと言うのだ…。
きっと誰かが忘れていっただけでしょう。
少しだけ目を通した後、またテーブルの上に戻しました。
怒涛の初日が終わろうとしている…。
布団に潜り、ひと息つく。こんなに永い一日は初めてです。
やっと休める…布団の中は最高…。そんな事を思いながら、目を瞑る。
そんな安らぎのひとときは、一瞬にして奪われました。
例の○○室の女性が廊下で騒いでいる。はあ。
「気をつけて」ってそういう事かよオバちゃん~。
奇声を上げながら、手洗い場で水をバシャバシャ流している音がする。
何の儀式かは、さっぱり分かりません…。
ひたすら(…こっちまで来るなよ。)と、願うほかありませんよ。
精神病院であればスルー出来るが…。なんせ、此処は無法地帯。
一応、ドアの鍵を掛けている事を確認しましたが、なんだか頼りないです…。
ただその日は疲れ切っていたので、眠気の圧勝。
怯えながらも、直ぐに眠ってしまいました。
軽躁と冷静を行き来したまま、一日目終了。