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三行日記と好きな先生

小学校四年生の時に赴任してきたA先生。

彼女は凛としていて、ショートヘアがよく似合う。
話した事もない時から、何故か好きだった気がする。
ついつい目で追ってしまう、そんな存在であった。

一〇歳にして「一目惚れ」とやらを初めて体験した。

A先生とは特に話す機会もないまま、一年が経った。
四月。仲の良い子とは皆、クラスも別れてしまった。私は途方に暮れていた。

その時点では、担任が誰になるかは分からない。
だが私にはどうでもよいのだ、そんな事は。
俯きながら、同じクラスの生徒の名前が書かれた紙切れをじーっと眺める。
(明日から地獄が始まるのか…)などとひたすら考えていた。大袈裟だ。
その時の私は恐らく、砂みたいな顔色をしていた筈だろう。

私は思ったより長い間、俯いていたみたい。
気付けば、担任が振り分けられる時間になっていた。

顔を上げると、前方にはA先生が居た。
その瞬間、私は心の中でガッツポーズをした。
あまりにも単純だ。


案の定、私は新しいクラスで直ぐに孤立した。
端的に言えば、いじめに等しい扱いを受けていた。

一〇歳にして「いじめ」とやらを初めて体験した。

私は揶揄われても「しょうもない」と言い返したり、嫌味を言われた時も舌打ちで返事をしたりした。
ショボすぎる反撃である。
私も私で、火に油を注ぎまくっていたのだ。
どうかしているのか。

「しょうもない」はともかく、舌打ちという下品な真似をした事は反省している。



五年生になってから、宿題として三行日記を毎日提出する事になった。
私が提出した日記を読み、先生が感想を書く。謂わば先生と生徒の交換日記みたいなアレ。

私は(三〇人分の日記を読んで、感想まで書くなんてさぞかし面倒だろうに。教師なんてよくできるなー…)と思いながら提出した。

何を書いたらいいのか分からんので、何の気なしにその日に聴いた音楽の話を書き連ねてみる事にした。
確か「衛星放送で流れてきたなんとかってバンドの〇〇って曲が良かった」とか、そんな事を書いた気がする。


返却された日記を見た。そこには、
「ユリさんは音楽が好きなんですね。〇〇聴きました。すごくかっこいい!」
と、ぺんてるの赤いサインペンで記されている。

私は「やっぱり教師って大変だな」と呟きながら、繰り返しその文章を読んでいた。
労力を費してまで聴いてくれた事に、なんだか申し訳なくなる。けれども、それ以上に彼女が興味を持ってくれた事が嬉しくて堪らなかった。



私は、作文を書くのが苦手な子供だった。
形式化されているような感覚が拭えず、いつも一行目から躓いてしまう。
国語は人並みに出来た筈だが、文章を書く行為に対してとてつもない嫌悪感を抱いていた。

三行日記にテーマなんぞない、だから好き勝手書いてやろう、と思った。
すると、初めて文章をスラスラと書く事ができた。
感情を乗せて文章を書いている感覚は、新鮮だった。
機械のように作文を書かされている自分とは別人みたいで。
大嫌いな宿題で、文章を書く行為の楽しさに気付かされるとは。

いつからか、A先生からのレスポンスを楽しみにしながら日記を書いている自分が居た。



A先生は、私がいじめられている事に対してとても真剣に向き合ってくれようとしていた。彼女の正義感の強さを知りながらも、私はそれを拒否した。
解決しそうにない出来事を、考える気も起きなかった。というか早々に考える事を放棄していた。

現状維持できれば十分だって、強がっていただけなのかもしれない。
助けようとしてくれたのに断った事で、より一層A先生に心配を掛けてしまう形になってしまった。


卒業するまでの二年間、A先生にはたくさん話相手になってもらっていた。

話題といえば音楽の話か、あとは観た映画の感想とか。いつもそんな感じだ。
そういえば、学校の話なんてほぼしなかったな。
私が話したくなさそうにしているのを、彼女も汲み取ってくれたのだろう。きっと。

会話をしている間だけ、嫌な現実から離れられる。
なにより素に近い自分で居られる、そんな気がした。


話相手になってくれたのも、A先生なりに間接的にでも助けようとしてくれていたからだろう。
実際、助けられたし彼女の存在が精神的支柱だった。
それは、今になって分かる事だが。



六年生になっても変わらず、三行日記は続く。

生きていても、ドラマチックな出来事は滅多に起きない。そんな当たり前の事を、宿題から学ぶとは。
だから日記の内容なんて代わり映えしない。退屈だ。

退屈だから、架空の出来事をひたすら書いてみる事にしようかな。


私はある日から、自分が思い描いたウソの生活を書き連ねていた。
自分でも何故こんな事をしていたのか、全く理解できない。

ただ分かっているのは、そこに描かれたウソの生活は私にとって「理想の生活」で。
殆どの周りの子達にとっては「普通の生活」である、という事だけだ。

ウソを吐いてまででも、現実から逃げようとしていたのか。今考えても虚しくて、惨めで、愚かだ。
それに気付いてないフリをして、私の愚行に付き合ってくれたA先生には、感謝の気持ちしかない。



そんな可笑しな日記の中でも相変わらず、音楽の事だけは素直に書き続けていた。

そこでA先生も音楽が好きな事、特にチバの大ファンである事を知った。
彼女が好きな音楽を知りたくて直ぐに聴いた。けれども、ミッシェルもバースデイも当時一二歳の私には渋すぎてよく分からなかった。

彼女とは、卒業後から現在に至るまで年に二回程度だが、葉書を送り合っている。
そういえば、いつかの夏に「今更ながら、ミッシェルにハマっています。」と謎の報告を添えた暑中見舞いを出した事があったな。

チバの歌声を聴くと、彼女を思い出さずにはいられないのだ。



卒業する数日前。A先生は少し照れながらも「このクラスの中で、ユリさんは私の一番の理解者です」と言ってくれた。その事を今でも鮮明に憶えている。
単なる社交辞令だろうが、私はその言葉に救われた。
彼女は当時の私にとって唯一の理解者だった。


今の私なら、チバユウスケが紡ぐ音楽の素晴らしさを、A先生に負けないくらいの熱量で話せるかな。
あの日の休み時間のようにまた話したい。
そんな事を時々考えてしまう。


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