目盛り/メモリ/memo
ある場所を思い出そうとするとき、どんなふうに思い出しているだろう。
場所の記憶は、ひとつの色かたちに集約された「もの」よりずっと漠然としている。地面や空にはっきりと境目がないように。いつの時刻だったか、どこの地名か、ぼんやりした記憶を手がかりに辿る。場所と人々のあいだに引っかかる小さな目盛り。
ある町にはシンボルがある。城跡、タワー、時計台、記念碑。町の記憶を保つのは、大切に保存されてきたシンボルという目盛り。そこにあったシンボルが失われると、どんな姿でどんな場所にあったのか、思い出す記憶のかたちも移り変わっていく。更地になり木々が生い茂れば、いずれ特定の場所と判別することは難しくなっていく。
私たちは町のシンボルを見て思いを馳せたり、シンボルがある場所へ出向いて同じ時間を過ごす。そこが見知った町でも見知らぬ町でも、安心や高揚・驚きを与える場所と出会えば、この体験を記憶に残したいと思う。その体験は目からの情報だけではなく、皮膚や手・歩くリズム、気候などの連動する条件も記憶の目盛りになっている。
こんなふうに場所の記憶について考えていると気づくことがある。
人や物の名前や顔を思い出そうとするときは、自分自身のもつ容器の中を手当たり次第がさごそと探るようなやり方をしている。一方で場所の記憶というものはどこまでも外部に果てしなく続いている。自分自身という容器の輪郭もぼんやり溶けて、ある場所と自分が入れ子状に行ったり来たり。その場所を望遠鏡や顕微鏡を使って遠近を眺めている自分がいると思えば、自分が小さくなって周辺の場所に包み込まれ、かくまわれているかのような状況さえ起こる。
以前は"記憶"が変わることのない時間のかたまりのように思っていた。今は"記憶"が移り変わっていくメモ(目盛り)の断片に思える。メモは失くしやすく破れやすい。その反面すぐに新しく書き起こせて、何枚も重ねやすい。はたまた何処かの誰かの知らないメモ(目盛り)に遭遇することもある。そんなときは自分なりのメモ(目盛り)を残していこう。どこまでも外へ外へ飛んでいってしまう頼りない"記憶"に親しみをもちながら。
民佐穂
のびちぢみの町
2022.6.4−6.22
10:00–18:30
https://cyg-morioka.com/archives/1780