母のガンがみつかるまで
前回は、私が母の遺影の夢を見て、慌てて実家に行ったら、
母はいつも通り元気だったというお話のつづきです。
2003年の夏。
母は急に「縁故疎開していた茨城県の平磯海水浴場に行きたいわ‥最後にね」と言いだしました。
母が自分から旅行に行きたいと言ったことはなかったので、
私は「そうね。平磯に行こうよ。本当に最後かもね〜」とまだ六十代の母に軽口を叩きました。
茨城県の平磯は、祖父の生まれた小さな漁港でした。宿泊するところは多くなく、魚料理のおいしい夏季限定の小さな旅館くらいしかありませんでした。
そこに母と夫と私の3人で宿泊しました。
トイレで驚愕したこと。
昼間は、海の家で、のんびりかき氷を食べて、少し荒い波を眺めました。
岩場の「高潮」というところまでひやひやしながら行きました。
そして、
母が平磯駅まで歩きたいと言うので、3人で町の中を歩いていると、あること気づきました。
それは、母の歩く速度があまりにもゆっくりだったのです。
「あれ?お母さんはこんなに歩くの遅かった?」なんて言いながら‥母がとてもおばあちゃんに思えました。
就寝前、私は部屋のトイレに入りました。するとトイレの床に、沢山の血が落ちていました。
私はお掃除をし、用も足さずに「この血は誰の血?」と夫と母に訊きました。
二人とも真顔で「知らないよ」と言うばかりなので、なんだか狐につままれた気分で床に着きました。
突然の電話
旅行から帰ってきて一ヶ月が過ぎた頃のこと。
父から「お母さんが癌みたいなんだよ。大きな病院へ行くように、紹介状みたいなものを持ってきた」と電話がありました。
私は「そんなのウソでしょ?何かの間違いに決まってる」と自分に言い聞かせながら、実家に向かいました。
町医者に渡された封筒は、まだ宛名もなく、封も開いていたので、中をのぞいてみました。
紹介状には、超音波で見たであろう、母の肝臓の絵が手書きで書いてありました。
「なに?この絵!あまりに巨大だわ。肝臓とほぼ同じ大きさのガンじゃない?」
そんな絵を見ても、私たち家族は
まだ癌に対する知識が乏しくて
「これは本当に癌なのね?」と
母のいないところでひそひそ話しました。
つづく
長文読んで頂き有難うございました。