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実家の氏神様は、宇治市の蛭子嶋神社(えびすじまじんじゃ)
僕の実家は宇治市の槇島小学校の近く、昔の記憶だと周辺は田んぼか町工場が集まるような何処にでもある田舎の光景で、その中に「蛭子嶋神社(えびすじまじんじゃ)」と呼ばれる小さな神社もあった。
実家から歩いて10分弱の距離の小さな竹林の中に蛭子嶋神社がある。小規模ということもあってか、特に子供の頃の記憶は少なく、秋のお祭りで子供神輿に参加したのも小学生の低学年頃の思い出じゃないだろうか、神社から御旅所まで祖母と一緒に子供神輿を引く手綱を持っていたのを薄っすら思い出す。
お祭り時期に訪れた御旅所。
中に立派な御神輿も保管されていたが、今は担ぎ手もいないようで保管されているだけと聞いた。
中学、高校と成長と共に行動範囲が広がり、隣町の子守神社(巨椋神社)や、宇治市でもっとも賑わうお祭りのひとつ縣祭のある縣神社(あがたじんじゃ)までが当時のお祭りの思い出になる。
数年前から蛭子嶋神社(えびすじまじんじゃ)には毎年お参りしている。
お参りしているのはお祭りの時期でもないので、年に一度家族が集まる日に合わせてお墓参りと氏神様にもご挨拶している。小さな神社ということもあって神社を管理するのは町内会の会長を決めるように輪番方式なのだろうか父親が総代として管理していた時期もあった。宮司さんは常におられることはなく、行事の度に子守神社(巨椋神社)の宮司さんに出張していただくと聞いた。
蛭子嶋神社は本殿以外にも末社だろうか小さな祠も数軒建っており、その一つに石を積み上げただけのものがあるんだけれど、神仏習合の頃の形跡として残っているらしい。(この区画にあった墓地は100mほど西に移設されている。実家や親戚の墓地はここです♪)
両親から蛭子嶋神社の云われを聞いたりもしたのだけれど、『宇治・山城の民話』という資料に「姫宮さん」の項もあるので、ちょっと紹介しておく。
花山天皇(65代天皇:在位 984年 - 986年)の后(恒子・忯子)が身重の体で、紀州の三十三番札所へのお参りの旅をされていた。その途中体調が急変して母子ともこの地で亡くなったことから、花山天皇が后の鎮魂として創建されたと伝えられている。
...だけど、
『宇治市史6 西部の生活と環境』の資料には、「后(恒子・忯子)はこの地で皇子を安産した」という云われもあるようで、、、千年以上前の史実はいつもおぼろげである。どちらにしても、お后とその皇子に関わる神社ということで良いかな♪
宇治市・久御山町周辺には非常に大きな池「巨椋池(おぐらいけ)」があって、豊臣秀吉による指月・伏見城築城にかかわる工事からその姿を変え、昭和初期に行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。つまり花山天皇の時代は池があって、地名にある「槇島」という島の中に神社の前進となる「祠」があったと推測できる。(小学校の頃、地域の歴史で「巨椋池」勉強したけど、神社の話はなかったな。昭和時代の巨椋池の写真は実家に飾ってあるけど♪)
石積みの上に本殿がある。
池の中の島に祠があった形跡だろうか? 水害を防ぐためだろうか?と思ったけれど、この程度の土台はどの建物にもある気がしてきた♪
そもそも宇治市の大半が池の中、平等院の方向から見える背景に、巨椋池を借景として用いていたと推測できる。長い年月の中、何度も治水が行われていて、昭和8年(1933年)から始まった干拓事業が昭和16年(1941年)に完了する。第二次世界大戦末期、戦争の影響で財政がどうなったのか気になるわ。
蛭子嶋神社 神輿の概要
2015年頃だろうか、総代として務めていた父から資料をもらったので紹介しておく。宇治川上流にある天ヶ瀬ダム(着工: 昭和30年 1955年 / 竣工: 昭和39年 1964年)ができるまで水害が非常に多い地域であったとわかる。
構造:
・台輪 四尺三寸(特大級)
・一重台輪
・通し屋根、二重垂木
・扉前後
新造:
・天保5年11月(江戸時代後期 1834年)
・神輿細工師
京都市寺町通御池上ル町
山口藤兵衛 利久
山口萬藏 高定
再建:
・明治9年(1876年)
・神輿細工師
京都市西京区新町
廣瀬弥兵衛 永久
参考:
・明治元年 お釜切れ
・明治4年 六助切れ
・明治18年 淀川洪水(明治大洪水)
・明治29年 向島庚申塚切れ、吹前破堤
・明治35年 瀬田川洗堰着工
・明治36年 宇治川巨椋池洪水
・昭和28年 13号台風 大黒破堤
巨椋池をまとめられている方がいたので貼っておきます。
1780年(江戸時代)に刊行された「都名所図会」のデータベースにある大池(巨椋池)。
余談
およそ1700年以上も前の話...。応神天皇(15代天皇)が近江への行幸の途中、菟道野(現:宇治)で出会った娘を娶ったとされる。その娘との間に生まれたのが菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で仁徳天皇(16代天皇)の異母兄弟という間柄だったりする。
菟道(うじ)というのは、今だと菟道(とどう)と読む名が地名に残っている。