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養蚕神社(こかいじんじゃ)、通称「蚕ノ社」の云われ。

前回「年中行事」の概要でしたが、今回はその続きとなります。

まえがき」で少し触れているが、6〜7世紀あたりの史実ともなると神話も半分になりそうで、伝承されている由緒書、近隣史跡の云われだけでなく、ネットから得れる情報も頼って整理しているけれど、今も昔も情報なんてものは、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということだけでなく、誰が何を目的として残したものかでその意味も捉え方も変わるもの。

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木嶋神社本殿の東隣に摂社として「養蚕神社(こかいじんじゃ)/蚕ノ社(かいこのやしろ)」の社があります。そもそも最寄りの嵐電の駅は「蚕ノ社駅」で、木嶋神社自体「蚕ノ社」の方が認知があります。養蚕神社の社も木嶋神社本殿と同じく明治以後に再建されたようで神明造の建築様式となっており、木嶋神社の由緒書「養蚕神社」の箇所には、次のような内容が記されています。

本殿の東側に養蚕神社があり、「蚕ノ社」とも呼ばれている。雄略天皇の時代(約1500年前)に、中国より渡来した秦酒公(はたのさけきみ)が優れた絹織工を率いて、数多くの絹、綾を織り出し「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓をいただいた。その後、この地域一帯が太秦と呼ばれる。推古天皇の時代となり、その報恩と繁栄を祈るため、養蚕、織物、染織の祖神を祀っており、その守護神とされる。

応神天皇(15代天皇:300年前後)の頃、秦氏の先祖が、多くの人々を率いて渡来し、養蚕、織物、染織の職にて朝廷に仕えていたが、その人々が次第に各地の豪族に所有されるなどで分散していった。その後、その官職を再編するにあたり、雄略天皇(21代天皇)はその職の人々を招集し、管理役職として「秦酒公(はたのさけのきみ)」を任命した。

当時、中国南朝の宋(420~479年)と日本(倭)と交流があったとされる。養蚕、織物、染織のモノだけでなく、その仕事に携わる職人の多くも渡来していたと推測され、当時太秦は産業の中心地として繁栄していたのだろう。

その後、日本最初の女帝でもある推古天皇(33代天皇:在位592~628年)の頃、更なる報恩と繁栄を祈るため、養蚕、織物、染織の祖神を祀って養蚕神社の創建とされた。そうなると木嶋神社の創建よりも古いのか、それとも木嶋神社も同じ時期なのかと推測できる。ちょうど遣隋使(けんずいし)がこの時代、倭国が技術や制度を学ぶために隋に派遣していた。600年(推古8年)~618年(推古26年)。その後、遣唐使(630年〜894年)の交流の際に、「日本」という国名が使われたとされている。

その推古天皇の甥は、厩戸皇子(聖徳太子)であり、広隆寺とも深い関わりがある。また、広隆寺の東側に「大酒神社」という小さな神社があるが、その由緒書には広隆寺建立者である「秦河勝(はたのかわかつ)」は秦酒公の六代目の孫と記されている。また、その大酒神社の云われは、養蚕神社の云われと類似する点が多く、神仏習合の慣習を思うと広隆寺、養蚕神社、大酒神社、木嶋神社は一つの組織もしくは存在であったのではないかと妄想が膨らんでしまう♪

ちなみに、平安時代(1180年前後)に編纂された歌謡集「梁塵秘抄」には ~稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞなき~ と歌われており、伏見稲荷大社や石清水八幡宮と並んでこの木嶋神社一帯も賑わっていたとされる!

<続き:元糺の池


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