秦氏(秦河勝・秦酒公)を祀る太秦の大酒神社と坂越の大避神社
地元の神社(木嶋神社)を調べることがあって、その流れ。
秦河勝(はたのかわかつ)は、603年(飛鳥時代)に広隆寺(蜂岡寺)を建立した人物。聖徳太子の懐刀として深い関係でもあったようで、弥勒菩薩半跏思惟像を授かると安置する場所として広隆寺を建てたとされる。
その広隆寺の東に「大酒神社(おおさけじんじゃ)」という小さな神社がある。その云われは養蚕神社(こかいじんじゃ)、通称「蚕ノ社」と類似する点が多く神仏習合の慣習を思うと広隆寺、養蚕神社、大酒神社、木嶋神社は一つの組織もしくは存在であったのではないだろうか。
太秦・大酒神社(おおさけじんじゃ)
由緒書によると、大酒神社の祭神は秦始皇帝、弓月王、秦酒公となっている。応神天皇(15代天皇:300年前後・古墳時代!)の時代、秦(しん)の始皇帝の13代目の孫とされる弓月君(ゆづきのきみ)が多くの人々(18,670余人)を率いて渡来し、養蚕、機織の職にて朝廷に仕えたとされており、その子孫が秦氏とされている。その祖先を祀っているのが太秦の大酒神社ということだ。
この規模の大移動は、今でいうところの難民・移民と捉えるとわかりやすいだろうか。当時、大陸から難を逃れてきた人々に朝廷が安住の地を提供したことから、その難を避けるという意味を取って、その音にある「避ける」から「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれたとされる(後日、盛ったようにも聞こえる♪)。また、大酒神社は大辟神社とも称するとされている。(大酒の漢字を用いる経緯には秦酒公にあやかって用いられたとされている)
そして、大陸から移り住んだ人々は朝廷へのお礼として、高度な技術で作られた養蚕や機織を献上したとされる。当時の大陸および朝鮮半島は日本と比較すると文明水準も高く、機織に限らず、農耕、造酒、土木、管絃、工匠等産業の発達に大いに功績したとされている。これは日本史における産業革命と言っても過言でないだろうな。古墳時代から平城京に遷都した大和時代の史実である。
ちなみに、太秦に住んでいて耳にする地名の由来として、秦酒公が生み出した非常に多くの品が積み重なっているさまを「うず高い」と呼び、天皇が非常に喜んだ様子を「埋益 ( うずまさ ) 」とも言うことから、秦酒公に禹豆麻佐 ( うずまさ ) の姓を預けたとされている。
この太秦を含めた葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発達に貢献した、秦氏族の祖神が秦酒公である。(秦河勝は秦酒公の六代目の孫)
太秦・大酒神社にある石柱
皇紀二千六百年秦祝記念
(1940年:神武天皇即位紀元から2600年)
太秦・大酒神社にある石柱
蠶養機織管絃楽舞之祖神(雅楽の祖)
太秦=秦河勝という表記もある
日本書記に、当時の民衆を惑わせていた新興宗教を討伐した人として秦河勝を讃える一説がある。
坂越の県社・大避神社(おおさけじんじゃ)
秦河勝が没したのは赤穂市坂越とされており、坂越湾(坂越浦)の生島(いくしま)に墓を設け、神域として人の立ち入りを禁止している。その生島から坂越湾越しの山麓に秦河勝を祭神とする坂越の県社として大避神社(おおさけじんじゃ)がある。
聖徳太子が亡くなった後、蘇我入鹿の迫害を避けて赤穂の地に落ちのびたといわれている。大避神社の由緒書にはこの地に着いて数年間ではあるが、赤穂の主な河川である千種川流域の開拓に尽力されただけでなく、雅楽の祖として祀られていることから、能楽師にも崇敬されているとのこと。
はっきりとした創建年は不明のようで、644年に坂越浦に辿りつき、647年に亡くなったようだ。村衆がその御霊を神仙化し朝廷にも願い、祠を建てて祀ったとされる。その後(1068年)に正一位もいただくなど、神社としての歴史は当然古い。
坂越・大避神社の拝殿
坂越・大避神社の井戸「ヤスライ」
三柱鳥居の紹介の際でも述べていたけど、秦一族は景教(キリスト教の一派ネストル教)とも通じており、西アジア、イスラムにも結びつけてユダヤの系譜があるという逸話もある。大避神社境内にある井戸「ヤスライ」の音は「イスラム」に似ているか?(はてさて...)
... 京の三奇祭として「鞍馬の火祭」「太秦の牛祭(広隆寺の祭)」「今宮のやすらい祭」があって、今宮のやすらいは「夜須礼」という漢字があてがわれている。
逸話がぐるぐる繋がっていくわw
<続き:広隆寺(蜂岡寺)>
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