仕事だけに生きてるんじゃないけど。
実家が商売をしており、まだ反抗期でもなかった頃は素直に店番をしていた。僕が他人様からお金と交換に商品を受け渡したのは物心がつく小学生ぐらいの頃だと思う。
母親の商売
うちの店は近所に住む人向けの商品として専売公社の認可をもらって塩とタバコを販売し、交通量もある道沿いに面していることもあって母の手作りのおにぎり、サンドイッチだけでなく、食品メーカーが作るパン「Pasco(敷島製パン)」やジュースなどもあって、それこそコンビニみたいな業態だったのだろう。
商品の中に、小学校指定の学用品としてランリック(ランリュックとも呼ばれる。ランドセルと同じ用途)や帽子、体操服などの特約店でもあって、今思うとランリックは小学生の6年間に何度か新調していた気がする。
僕が生まれたのは団塊ジュニア世代で第二次ベビーブームとも呼ばれており、商売のタイミングとしては良い時期だったのだろう。春は新入生の準備などで繁忙期、秋の運動会前は体操服を新調される方が多かった記憶がある。
小学校は近所にあって、その周りは田んぼが広がっていたり、準工業地域として小さな町工場も建ち並んでいた。僕が小学生の高学年ぐらいになる頃だったか、家の前にコンビニエンスストア「LAWSON」ができた。
夜中でも明るい店内、夏は涼しく冬は温かい。目移りするような商品が陳列されており、雑誌やマンガなどの週刊誌が定期的に入れ替わっている。当時、道を挟んだ我が家のようにコンビニに通っていた記憶がある。
団塊ジュニア世代が小学生を卒業すると、子供の数はどんどん減っていく。同じタイミングで切手やハガキなどの郵便局で取り扱っている仕事もお店で行うようになったんだけど、そのような特約店としての役割は数年後にすべてコンビニが取って代わるようになっていった。
父親の商売
僕が小学生の頃、父親は脱サラをして飲食店を始めた。タバコや学用品などの小売店は母親のお店で、飲食店は父親のお店という構図だ。叔父(父親の兄)が大工であったことも関係しているのか、お店は父も含めて身内だけで建てられたようで、セルフビルドという言葉はずいぶん恥ずかしいんだけど、まさにそのような状況だったし、棟上式は特別な雰囲気があったと薄っすら記憶にある。
焼肉レストランというスタイルを土台に、時代の変化と共に、カラオケ(8トラック)を導入したり、居酒屋スタイルに変わったりしていった。お店のスタイルが変わる度に内装工事もあったけど、ほとんど父親が手作りでやっていたんだ。
町工場が多かった立地もあって、仕事終わりに夕食として利用されるお客さんが多かった。中には気性の荒い人もいて、酔っぱらいの喧嘩を目の当たりすることもあった。平成景気(バブル経済)と呼ばれる時期は、町工場も潤い、その恩恵からお店も繁盛していた。立地条件としてそんな偏った業界が客層で、駅チカなどで様々な客層を取り込める環境でも無かったこともあって、飲酒運転に対する罰則が厳しくなると、飲食店の客足は確実に落ちていった。
タバコに対しての風潮が大きく変化し、パッケージには「警告表示」が印刷されるようになる。副流煙は非喫煙者にも害が及ぶ「受動喫煙」ということも広く認知され、歩きタバコは危険となって、ポイ捨てはモラルがない行為となった。そして痛恨の一撃として「たばこ税」の増税も実施された。
それらの外的要因も含めて、ゆるやかに実家の商売はピークを越えて、細々と継続することが目的とする段階に入っていく。母親のお店は今も継続しているが、父親はお店をたたんだ。
曖昧なんだけど、そんな生き方。
自営業という職種には「定年」という概念はなく、死ぬまで現役というか、生き甲斐みたいなものなんだろうと思う。選択肢の中からそれを選んで営んでいるだけで、天職という聞こえの良いことでもないだろう、仕事と生活は区別するようなことでもなく、ただシンプルに「生き方」なんだろう。
そんな生き方を傍で見ていると、儲けるとか成功するとかは、一つの区切りでしかなく、良くも悪くも「生き方」を継続するだけであって、仕事は与えられるものじゃなくて、仕掛けて自分で作っていくものという考え方が染み付いていく。(農耕型)
このあたりに、僕が何屋であるのか曖昧になる要因があるんじゃないかと思うんだけど、どうだろうかね。