北野天満宮「ずいき祭」のご奉仕から、そして「北野祭」の復興へ
#先日の余談
10月1日から5日にかけて、京都・北野天満宮(天神さん)にて「ずいき祭(瑞饋祭)」が開催されている。
京都の代表的な秋祭として知られる祭典。菅原道真公が大宰府で彫られた木像を随行のものが持ち帰っておまつりし、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えして感謝を捧げたことが始まりと伝わります。1日の「神幸祭」で天神さまを本社より西ノ京の御旅所にお遷しし、2・3日目は御旅所にて献茶祭などを斎行。4日の「還幸祭」で本社に戻られます。野菜や乾物で飾られた「ずいき御輿」は、ずいき祭の期間中、御旅所に展覧され「還幸祭」で巡行します。(北野天満宮HPより)
2016年10月4日、友人(作事方)からお誘いを受けて、還幸祭に初めて参加し「楽人付鉦鼓」の役として、当時の装束に身をまとい道中を練り歩いたのがご縁の始まり。(草履のサイズが合わなかったのか、鼻緒で足の甲に靴擦れができてしまった♪)
還幸祭は御旅所(妙心寺道・佐井通)から、南は北野天満宮瑞饋祭駐輦所(三条通・天神道)、そして七本松通を上がって、上七軒通を通って北野天満宮にお戻りとなる。(ずいき神輿のルートとは異なる)
三基の鳳輦(ほうれん)と呼ばれる天皇の乗り物に加え、御羽車と呼ばれるコンテナほどの大きな二輪の乗り物(黒毛の大きな牛が曳く様子は圧巻!)や、当時のお付きの役職を再現し、古儀物を持った総勢150名前後の行列となります。
赤と緑の二体の獅子
振り返ると、僕はさまざまなお祭りにてご奉仕させていただくライフスタイルとなって10年ほどですが、「祇園祭」や「ずいき祭」は日程が曜日ではなく、日で決まっていることから平日に行われることも多く、特に日中に執り行われる「ずいき祭」は、都合がつかないこともあって、タイミングが合えば参加することになると思っています。
そんな中、今年の10月4日に行われた「還幸祭」に参加しました。当日の朝、北野天満宮の受付に行って役職とその装束をいただくのですが、申し付けられた役職は「獅子」。顎が開くように作られた木製の獅子頭をかぶり、二人で一体の獅子となって渡御の先頭を練り歩くことに!(舞はしないです♪)
かつて朝廷に献上していたとされる京丹後市大宮町にて作られたお米を使った「宮弁当(でかいおにぎり)」をいただき、英気を養ってから始まる。
現在、北野天満宮には赤と緑の二体の獅子の装束があるようで、今回は赤の獅子は経験者組が務め、僕たち初心者組は緑の獅子を務めることになった。獅子造形をよく見ると歯はすべてギザギザの山形が並んでおり、赤には無いが緑には真ん中に角が生えている。参考までに狛犬の云われを調べてみると、獅子との関係もあるようで、有角の狛犬と無角の獅子が一対となっているという説明も見つかる。
事前の練習もなく御旅所から数時間、獅子は道中の行列から外れ、右へ左へ前へ後ろへと自由気ままでしたが、後半の七本松通、上七軒通が獅子のクライマックスのようで、すこし肌寒い気温にかかわらず、汗だくになっておりました!
当然、神事ですので、神様のご加護がお祭りに関わり、人から人へ伝わっていく。獅子の顎を開いてかぶりつくことで健康祈願・心願成就を行う非常に重要な役目だと気がつく。
道中では老若男女(1歳にも満たない赤ん坊から車椅子に乗った御年配者)さまざまな方にかぶりついていた時に、「賢くなりますように」という声が聞こえる。そう言えば、北野天満宮に祀られているのは学問の神様としても有名は菅原道真公ですー。
上七軒通では、お茶屋の舞妓さんや、観光で来られた海外の方も大勢おられ旅の経験として持ち帰っていただければと思い、ホスピタリティ多めでかぶりついておりました♪ 僕にとっても「獅子」は非常に貴重な経験となった。(両腕、筋肉疲労でパンパンになりましたが...)
北野祭礼をまとめ直す
北野天満宮は、947年に菅原道真公(845年-903年)を祀って創建された。「学問・芸能の神様」として多くの参拝者が集う神社。(左京区にある曼殊院「北野別当職」とも繋がってるらしい!)
北野天満宮にはさまざまな年間行事がある中、8月に「北野祭」と呼ばれる例祭があって、10月の「ずいき祭」とは別の祭事として執り行われている。応仁・文明の乱にて御神輿が消失したことがあって当時の祭礼は途絶え、変化して今に至ってる。
京都文化博物館の学芸員をされている西山剛さんが歴史的な監修もされており、いただいた資料も含めて、僕の理解として整理しておく。(誤解があればご指摘ください♪)
863年(貞観5年)
神泉苑で御霊会が実施され、平安後期ごろから神輿の神幸祭、還幸祭などが定着したとされる。(→祇園祭の発祥だわ)
987年(永延元年)8月5日
御霊会の性格を帯びて、一條天皇の勅使が派遣され、北野社の祭礼(公的祭祀:勅祭)が成立。平安後期ごろ、御旅所祭祀を備えた神幸祭に展開。
勅祭とは
朝廷が勅使(天皇の使い)を派遣し、奉弊する祭礼
・平安時代中期から中世にかけて特別の尊崇を受けた神社(二十二社)。
・祈雨、止雨、天変地異、祭礼などの際に朝廷から奉弊が立てられる。
北野社:二十二社のうち「下八社」に属する。
二十二社奉幣は平安中期から室町中期ごろまで継続。
勅祭としての変化
・平安時代の国家的祭祀である「北野祭」は鎌倉時代もそのまま維持される。
・室町時代になって、幕府が主導する祭礼に変化
・経済基盤も朝廷からの拠出から幕府が寄進した荘園から運上される資金での展開となる。
応仁・文明の乱による被害
1474年7月26日(文明6年)
北野で戦災が起こったため「西大路」の御旅所に神輿を避難。
1475年2月20日(文明7年)
避難先の御旅所が被災、神輿一基が消失
以後、北野祭礼は数百年にわたり停止する。その後、幕府による復興の兆しはあったが定着はしなかった。(そうなると今日行われている北野祭は居祭ということだろうね)
御祭連歌の登場
・祭礼が行われていない間、「連歌」の開催により神霊の慰撫が行われる。
・室町時代に見られた、神事と民衆との関係が断絶する。
ずいき(瑞饋)神輿の成立
・北野祭礼の機会を失った西ノ京の神人(神職)による自主的な祈り。
・17世紀から18世紀にかけて西ノ京の神人が、御旅所を信仰の中核として位置づける。
ずいき神輿
「芋茎(さといもの茎)」で屋根を葺き、柱や瓔珞などは野菜や穀物、乾物などで飾り付けられた御神輿(京都市の無形民族文化財に登録)。西ノ京瑞饋神輿保存会により伝承されている。
2027年、菅原道真公千百二十五年半萬燈会に向けて「北野祭」を復興
今から9年後である2027年には「半萬燈祭(25年毎)」としてさまざまな行事が計画されており、そのひとつとして、当時の「北野祭礼」を復興を目指すべく「北野祭保存会」「北野祭神輿会」「北野天満宮神若会」が立ち上げられたようで、近年のずいき祭はその復興の流れを組んでいる。
おそらく三基の鳳輦は輿丁が担ぐ御神輿に変わるのだろう。そうなると野菜で飾り付けられたずいき神輿はどうなるのだろうか。ちょっと気になるんだけど、人の判断や行動が積み重なって次の百年に繋がっていく。
京都に限ることではないんだけれど、過去数百年、千年以上の結果が、やはり京都にはあるのだ。