僕は歴史学者ではないけれど、6〜7世紀あたりの史実ともなると、神話と区別できるのか不安だらけです。(木嶋神社の云われ)
僕が今住んでいる街(京都太秦)に引っ越してきたのは2011年12月。住まいは古い路地の中にあって、御神輿、消防団、町内会などの地域社会に関わりながら丸6年が過ぎたところです。
住み始めてから知ったことですが、徒歩5分ほどの生活圏に木嶋坐天照御魂神社(木嶋神社)や、国宝の弥勒菩薩半跏像がある広隆寺など、京都の中でもかなり古い時代から云われのある地域です。
昨年(2017)末からそんな木嶋神社の云われを調べる機会ができたので、ここに書き記しながら思考整理でもやってみようかと思っています。
(僕は歴史学者ではないので一個人の見解となる表現も含みます。ご指摘あれば是非コメントください♪)
木嶋坐天照御魂神社あらまし
木嶋神社の由緒書の冒頭を整理すると、上記のような内容となる。(京都市の史跡指定はこちら)
由緒書には、その後「木嶋坐天照御魂神社」「養蚕神社」「元糺の池」「三柱鳥居」という内容が続いている。歴史は古く『続日本記』、『日本三代実録』や『梁塵秘抄』などの文献にも木嶋神社を示す内容が残っているということだけど、そこまで調べるのは当面無いかと思う。良し悪しはあるかと思うのだけど、ネットを徘徊しながら紐づく話を紡いでみる。
木嶋神社を含めて、この地域の発展に大きく貢献したのは秦氏であり、上賀茂・下鴨の両神社に関わる賀茂氏とも接点があり、御神紋は同じく「二葉葵(ふたばあおい)」となる。下鴨神社は崇神天皇(10代天皇:BC90)の頃に造営が始まると云われているようで、賀茂氏の始祖は、なんと!八咫烏に化身して神武天皇(初代天皇:BC660〜?)を神武東征の際に導いたとされている。(神話ですよね♪)
魏志倭人伝(東夷伝)に倭の女王(卑弥呼)が貢ぎ物を贈ったのが238年と記述されている。その当時は崇神天皇(10代天皇)の時代という説もあったりする。時代は古墳時代(大和時代)である。
そして、応神天皇(15代天皇:300年前後)の時代、秦(しん)の始皇帝の子孫とされる弓月君(ゆづきのきみ)が多くの人民(18,670余人)を率いて渡来し、養蚕、機織の職にて朝廷に仕えたとされ、その子孫が秦氏であるとされる。当時は百済と日本との交流が盛んで、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が隆盛していた。その数百年、聖徳太子が半島を横目に大陸(隋)に宛てた書簡が超有名な「日出処の天子...」となる。
尚、京都は平安京遷都の際、市中の道は碁盤の目状に開発され今に至る。そのため京都に住んでいると東西の道と南北の道の交差点を基準に場所を指し示すことが今でも多い。そんな中、東西の道である「下立売通」「御池通」「三条通」が太秦で交差しており、平安時代では洛外の主要都市であったであろう面影が残っている。
木嶋神社創建時期は不詳となっているが、『続日本記』大宝元年(701年:飛鳥・古墳時代)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたとのことから、大きく見積もって6〜7世紀あたりと推測される。すでに神話と史実を分類するには僕の理解が足りず、ひとまず日本の礎の時代から紐づくものがあるとだけにしておく。
<続き:木嶋神社(木嶋坐天照御魂神社)>
関連する投稿
・まえがき
・木嶋神社(木嶋坐天照御魂神社)
・木嶋神社の年中行事
・養蚕神社(蚕ノ社)
・元糺の池
・三柱鳥居
・大酒神社(大避神社)
・広隆寺(蜂岡寺)
・天塚古墳(白塚)