「バカの壁」ならぬ「ジジイの壁」
こんにちは。まるねぇです。
先日、なかなか日本のあらゆる組織が変わりにくいのはなぜだろうと友人と話していたところで、今日、面白い記事を発見しました。
河合薫さんが「ジジイの壁」と名付けた、日本特有の意思決定権を持つひとたちが「ジジイ化」しているために、組織改革が起こりにくいという記事。
この「ジジイ」とは、別に妙齢の男性を指しているのではなく
“性別や年齢に関係なく、組織の中で権力を持ち、その権力を組織のためでなく自分の保身のために使う人たちのこと”。
そのために、意思決定と実際に現場で働く人たちの間に乖離が起こり、分厚い壁となって、様々な不祥事や問題が起こる、と記事では書いています。
ちょうど、私は組織上層部の意思決定者と現場の間に太くて大きな川が流れており、渡るには途方もない労力がいる、と言う話を友人としたばかりだったのですが、この太くて大きな川がまさに「ジジイの壁」です。
なぜそうなるのか。
河合氏は、ひとつは日本は海外と違い、人権意識が薄く、年功序列の社会が根強く残っているために、労働者や意思決定者が同じ目線ではなく、また権力を持つ中でのルールもないために、チェック機能がないこと。
もうひとつは、意思決定者がプロフェッショナルではない、ということを指摘しています。マネジメントや組織運営をするための専門教育を受ける、と言う土壌が日本にはないのです。
私も、これまで大企業、中小企業、行政、福祉現場、教育現場を見てきましたが、ずっと感じてきたことが、マネジメントする能力のない人がマネジメントをしている現場の悲劇です。ただ目上である、年数が多い、というだけで管理職ポジションやマネージャーになっているような現場のいかに多いことか。
そのために不向きな人に負荷がかかりすぎて休職してしまったり、コントロールができずに現場が崩壊していたり、各自がてんでバラバラな方向を向いてい仕事をしてたり、といった現場をたくさん見てきました。
そう、日本には「専門職」としての意識が非常に薄いと感じます。
例えば、私が持っている資格の一つである「社会福祉士」も、国家資格ですが取得したからといってすぐに専門家として仕事ができるわけではありません。そこから経験が蓄積されてだんだんと「専門職」となっていくわけですが、その経験の蓄積が正直、てんでバラバラで明確な方向性があるわけではない。大学院でソーシャルワークを専門に学べるカリキュラムを作っているところもありますが、そんな教育機関は少なくて、何を持って「専門」といえるのか、ということはひどく曖昧ですし、まだまだ未発達なところだなと感じます。
資格取得しているからと言って、ソーシャルワーカーをしているという前提で話をすると、驚くほど話がかみ合わなくて、一体何を学んできたんだろうと驚くことも少なくありません。
私は市民現場で草の根で学びながら、その後紆余曲折を経て資格を後付けで取ることになったので、ソーシャルワーカーとは、社会福祉領域の専門家であり、自分の専門分野の福祉制度やその成り立ち、関連法案や法律、行政機関の役割、政策の立案から成立まで、そこからどのよう運用されるのか、そういった一連の流れが分かっていて、その中で自分のやるべき職種で専門的に最大限のパフォーマンスを発揮し連携をはかりながらミクロ、メゾ、マクロ視点で支援をする仕事だと思っていました。
しかし、現場ではその「全体を見る」という視点のない人がどれだけ多いことか。なんだか、まだまだ福祉の領域が、ボランティアや、主婦の活動的なイメージの払しょくができていないんだ、ということがだんだんわかってきて、まだまだ海外でいうところの「プロフェッショナル」となるためには、かなり時間がかかりそうなんだなと感じたところです。
話がだいぶ横道にそれました。「社会福祉士」を一例に取りましたが、似たような名称独占資格は多く、こういったものの乱立が、日本の「専門職」の扱いを低いところにとどめている要因のひとつだということ。そして、その専門職ではない人が、年功序列制度によって意思決定者になってしまうために、現場に合った制度設計や業務になっていないことが多いんだと改めて感じ、少しでも「ジジイ」が減り、年齢や性別など関係なく、メタ認知能力の高いプロフェッショナルの意思決定者が増えていくことを切に願いながら、また粛々と日々の業務に戻っていくのでした。
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