「サハの女」になったワケ|極地で出会った自分
Дорообо!(ドローボ!):サハ語で「こんにちは」という意味です。
読者の皆様、こんばんは!サハの女です。
毎日投稿の有言実行すべく、今日も四苦八苦しながら書いています。(笑)
最後までご覧くださると嬉しいです!🫶
マイナス50度の極寒の地で、私は自分自身を見つめ直しました。
私が『サハの女』と名乗るようになった、ある出来事がきっかけでした。
その前に、ちょっとだけ、わたしのことについて、経歴(2024年10月時点)を紹介したいと思います。
プロフィール
1998年生まれのおひつじ座。出身は、北海道の稚内市。
生粋のどさんこです!!✨
経歴
生まれてから20歳まで北海道在住。
その後、ロシア留学→コロナ帰国→在学中に上京→都会に揉まれて嫌になる→ロシア逃亡(大学院留学)→ロシアで職見つからず、日本が恋しく帰国→関西で派遣→日本の企業の風潮に合わず、離脱→地元へ帰還(現在)
に至ります。(笑)
(高校生まで1度も乗ったことがなかった飛行機にたくさん乗って
世界を飛び回りました(汗))
中学から大学の時に、なるべく多くの国際交流に参加しました。
(英語暗唱、弁論大会、English Camp, JENESYS、トビタテ、国費留学、
カナダホームステイ、海外ひとり旅)
いわゆる海外大好きな自由人です(笑)
学生時代を振り返ると・・
都会との距離があった中高生時代
小中高校は、地元の公立に通いました。
中学で英語の楽しさに目覚めました。
このとき、2年生で参加した全道英語暗唱大会で出会った違う地域の中学3年生の仲間から、札幌の高校に進学することを聞かされ、衝撃を受けました。
この時から、もっと英語を学ぶなら環境が整っている都会の高校しかない!と意識をするようになったのです。
とはいえ、近くの中核都市(札幌、函館、旭川など)から車で5時間もかかるところに住んでいたので、通学ができるはずもなく、家が裕福ではなかったので高校まで地元で過ごしていた悔しい思い出があります…
この想いを大学受験に成功して得ようと考えていました。
「日本国内で最も外国語学習の環境が整っている大学はどこか?」
そう調べた時に、東京外国語大学を見つけました。
その熱い思いも虚しく、前期試験を受験しましたが、失敗しました。
(自分の英語力不足とセンター試験の勉強不足なので、自業自得です)
その後、浪人して翌年必ず合格するという覚悟もなく、合格圏内だった母校を後期試験の面接で合格し、入学しました。
SexyZone(ジャニーズ)に全てを捧げた学部時代
大学(学部)は、北海道の国立大学で、専攻は多文化共生。
国際関係やアメリカ政治と外交を勉強していました。
(トップクラスの大学ではありませんが、一生の友にもめぐり会いました。)
大学に入ってから、東京や全国各地に足を運ぶことが簡単になったので、当時どハマりしていたSexy Zone(セクゾ)のコンサートに年7〜8回参戦する(3ヶ月でほぼ毎週参戦)熱狂的なオタクになっていました。
特に大学2、3年次は全国駆け巡って、バイト先の先輩に
「ねえ、コンちゃん、今どこいるの?」
とInstagramでDMされることが多かったです。(笑)
そんなヲタ活に情熱を注いでた頃、水面下で、海外留学へのアプローチも
進めていました。
サハ人との出会い|はこだて国際民俗芸術祭
毎年、新入生が入る時期に函館市内の大学では「芸術祭」を主催する団体の外国人ディレクター(芸術祭のボス)が直々に足を運び、芸術祭のために、ボランティアスタッフの勧誘を行います。
(芸術祭のあらゆる場面で人手が必要なので大多数の人を毎年集めている。)
その中で、「ガイド班」(通訳)は、毎年決まったメンバーやその紹介で
運営しているため、正直、新入りの入る隙がないのが事実です。(苦笑)😰
そんな中、私は「ガイド班に配属されないなら、芸術祭に参加しない!」
と強気にアプローチしました。それだけ当時は、海外との接点をもつために必死であったのです。
その熱意が伝わり、ガイド班の新メンバーとして加わったものの、
言われたのは、思わぬ一言でした。
ガイド班リーダー:「じゃあ、コンちゃんは、ロシア班ね。」
私:「え? なんでロシア班ですか? わたし、ロシア語わかりませんよ。」
理由を聞いてみると、次の返答がきた。
ガイド班リーダー:
「地元がロシアに近くて、交流経験があるんだよね?したら、最適じゃない!」
私:(いや、ごもっともだが、私は英語で話せるフィリピン班がよかった…)そう、心の中で呟きました。
実はこの判断が私の期待をいい意味で裏切ってくれたのです!
長々となるので結論をまとめると、
ロシア側のアーティスト(サハ共和国から来た団体)にも、英語通訳者がいて、その子と主にやりとりができた。
英語通訳者が、同級生のサハ人の女子学生で同じくカナダ留学を目指している同志であった。
ロシア班には、ロシア語がペラペラな大学の先輩(トビタテ合格の恩人)がすでにおり、第一通訳者として運営側とアーティストとの間で動いてくれた。🙏 (私はサポート係。)
同世代が多かったサハ人とロシア人のアーティストと交流を重ねることで、
ひとつの面白い案に辿り着きました。
「トビタテ留学!JAPAN で サハ共和国への 留学を実現させる。 」
トビタテで切り拓いた、サハ留学
やると決めたら、すぐ行動に移す!それが、わたし、サハの女です。
当時、大学で「多文化共生」という分野を深く勉強していました。
日本のこれからの多様化する社会、多文化共生が必要となる社会で、外国人と日本人が、仲良く暮らしていくにはどうしたらいいんだろう?
これらの疑問をサハ共和国でもっと追求すれば、新しい研究結果が出るのではないだろうか?
そこで、
「多文化共生✖️サハ共和国(実はロシアは多民族国家)」
という留学計画をひらめいたのです。
「絶対に、これは面白いし、ワクワクする!!」
無事に、超難関の書類選考と、油断ができない面接選考を突破した私は、
トビタテ10期生となりました。(新興国コース)
後日、トビタテをどのようにして突破したか?どんな対策をしたか?
を発信します。
そして、爆誕した「サハの女」
わたしが、ロシア・サハ共和国のサハ人と似ていると気付かされたのは、
留学してから早い段階でした。
決定的だったのが、地元ヤクーツク市のテレビ局
(News Ykt:現在は閉鎖されている)
が実施した面白い検証での出来事です。
検証結果は、現地人はロシア語で対応し、英語で反応することができませんでした。重要なのか、この結果ではなく、視聴者からのコメントです。
なんと、ビックリ!!🫢
サハ人から見て、私はサハ人と間違われることが実証されました。(笑)
以上の経緯から、私は「サハの女」と名乗るようになったのです。
(めでたし、めでたし👏)
まとめ
サハの女の由来:サハ人に「サハ人に似てるよ〜!」と言われることが多かったことがきっかけ。
サハ留学は2019年8月〜2020年7月までトビタテ留学で行った。
大学院留学はその2年後に行くことになるが、その話は次回。
PS:サハ人との出会いをくれた、大学受験の失敗と芸術祭のガイド班(通訳ボランティア)での経験は一生の宝物です。
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(スパシーバー・ザ・パスモートル! フシェム、パカ! パカ!)