人を殺す期待 期待に殺される人々
期待、誰もが持つものであり、持たれるもの。ほとんどの場合、その期待は他人に向けられ、自分に向けられることはない。できることに対して向けられる圧倒的なまでの期待。その期待に責任なんてものはなく、責任は、その期待を向けられた人に対して重くのしかかる。
期待を受けた人は、その期待に応えようと必死だ。自分が勝ちたい、いい結果を残したいと思っていただけだったのにも関わらず、知らず識らずのうちに、期待によって、他人の想いまで背負っている。
自分自身の欲望や希望は、叶おうが叶うまいが関係ない。それが成功しようが失敗しようが自分の責任なのだから。成功したら嬉しい。失敗したら悔しい、悲しい。それだけの簡単なこと。そこに余計な考えは必要ない。
しかし、そこに「期待」が加わると状況は大きく変わる。自分の成功、失敗に期待してきた人すべてがのしかかってくる。
自分が成功したら、一緒に喜んでくれる。祝福してくれる。それは、きっと、何者にも変えられない充足感に満たされた時間だろう。多少の妬み嫉みなんか気にならないくらいに。
では、失敗した時はどうだろうか。期待していたのに。君ならできると思っていたよ。と言われるかもしれない。厳しい言葉をかけられる不安は拭えない。残念だったね、また次頑張ろう、と優しい言葉をかけてくれるかもしれない。でも、期待されていたという事実から、その優しさの裏に喪失感があるのではないかと勘ぐってしまうこともあるだろう。
期待はその時の結果にだけでなく、結果を出した後にも影響する。それこそ、その人の心をへし折ってしまうくらいに。
実際に考えると、オリンピック選手が考えやすいだろう。金メダル確実と期待されていた選手が、メダルを獲ることすら叶わなかったなんてよく聞く話である。そういった選手の多くが、オリンピック終了後のインタビューにて、敗戦した申し訳なさや不甲斐なさを語り謝罪する。
代表として選手になったのだから、メダルを取れなかったら謝罪して当たり前という考え方もあるのかもしれない。しかし、期待していたのも、メダルが確実だと考えていたのも、いわば観客側の勝手である。選手はあくまでもメダルを獲ってやるんだと意気込み、万全のプレーをしようと臨んだだけなのだ。誰にもメダルが絶対に獲れるなんて保証はできないのにも関わらず。
この期待というのは真面目な人ほど影響を受けやすい。他人の期待に応えようとするから。期待されたからにはその期待に応えなくてはいけないと考えがちだから。本当は義務ではないのにも関わらず。応えようとすればするだけ緊張もしやすくなり、失敗した時の反動も大きい。他人から求められ、それに対して結果を出してきた人だからこそ、そこに己の存在価値を見出している。存在価値の居場所を失ってしまった時、人は路頭に迷う。抜け出せない迷路に入ってしまい、抜け出すことには大変な労力が必要となる。
この事実から私は述べたい。期待は勝手だと。自分勝手な期待が、他人を殺してしまうことえあるのだと。
私たちは、勝手に期待をしてしまう。期待をすることが普通になっているから。当たり前になってしまっていることは、多少意識した程度では変われない。しかし、私たちはこの当たり前から抜け出さなくてはならない。私たちの身勝手な当たり前によってもがき、苦しみ、才能を殺してしまう人を1人でも減らすためにも。