[小説]青と黒のチーズイーター 4章 虎口を脱して、虎口に戻る 5話 大事なもの
5話 大事なもの
最初は子どもかと思った。
高城ルシアと一緒にいたチビが、いきなり持っていた缶を叩きつけてきた。
鼻っ柱が強い女だ。ラミロ・デルガドは、平手打ちで殴り返した。
通りがかったほろ酔いの二人連れが足をとめ、殴られた女と殴った男を見てくる。通りすがりの女にちょっかいを出して、いざこざになったぐらいに思っているらしい。無言で酔っ払いたちを睨め付けた。
筋肉質で百九十近い男の荒々しい顔つきは、それだけで威嚇になる。目を合わせるや、ふたりそろって逃げ去っていった。
ラミロは、小柄な女に目を戻す。
自分の倍近い体躯の男に殴られながら、悲鳴を上げなかった。怯えたようすもなく、視線もそらさず見上げてくる。あきらめずに、逃げ出すタイミングをはかっていた。
その姿勢が、<モレリア・カルテル>の暴力を知る女の、フリーズがとけるきっかけになった。
身体の感覚を取り戻した高城ルシアが、危険の源から離れようとチビの手をとろうとした。
「マリア、逃げなきゃ!」
もちろんラミロは許ない。精神力だけではどうにもならないことをチビが示してみせたのに、わからなかったのか。
相手が大男でも簡単に動きを封じる方法をつかう。
ルシアの髪をわしづかんだ。あっさり引き戻す。
「マルティン、そのチビのボディチェックをしろ!」
背後で身構えていた手下に命令した。
気の強さだけではない。殴られてよろめきはしても、倒れなかった体力に思いあたることがある。
果たしてマルティンが、銀バッチとIDを見つけて差し出した。
「こいつ、警官です!」
ラミロは、受けとったポリスバッチをひらひらと振ってみせながら、ルシアを一瞥した。
「制服組がボディガードとは、まあ相応だな」
皮肉ってみせたものの、内心では別ことを考えていた。警護を下っ端にやらせているのは、ダニエラ折場の情報を警察側がさほど重要視していないからだとしたら、このあとの展開は楽なものになる。
「静かにしてろ」
ポリスバッチをクドー巡査に投げかえした。
「でないと、おまえが原因で、保護しているつもりの対象が怪我することになる。マルティン」
「はい!」
「チビが手錠を持ってるはずだ。拘束しとけ。そこの小汚い包みも開けろ」
殴った拍子にクドーが落とした布リュックをさした。
マルティンが言われたとおりに動く。後ろ手に手錠をかけると、すぐに包みをあらためた。
「——っと、重っ! バインダーファイル? があります」
「こっちに開いてみせろ」
ルシアの襟首をおさえているラミロに代わって、バインダーファイルをばらばらとめくった。
「ちょっと、乱暴にあつかわないで!」
「家計の記録とか振り付けメモなんて、あんたらには紙ゴミだろうけど、あたしには一等の財産なの! 大事な思い出なの!」
「見栄を張るな。ヌードダンサーが家計収支表なんてつけるわけない……」
冷笑でゆるんだ口角がさがった。本当に収支表をつくっていた。
どちらにせよ探していたものとは関係ない。すぐに興味をなくした。
「だから言ったでしょ!」
「たしかに紙ゴミだな。捨てろ」
マルフィンが従う。バインダーファイルが道端に放り出された。
バイダーファイルとアスファルトがぶつかる音に、ルシアの頭は沸騰しそうな熱をはらんだ。
怒りの色をはった顔の前に、クドーの無線機が掲げられる。
手にしていたラミロが、これみよがしに落とした。
そのまま踏みつけ、卵を潰す容易さで粉砕。残骸を蹴飛ばして、道路脇に追いやった。
助けを求める手段を絶たれただけではない。クドーの仕事道具を足蹴にした男に、ルシアは軽蔑の瞳をむけた。
「フレデリーコなんか、いまごろ逮捕されてる」
迎えうったリウが捕まえてくれたはず——。
ルシアのはったりと取ったラミロが横柄に応えた。
「じゃあ、確かめに行こうか。おまえの隠れ家ぐらい、こちらは承知だ」
「ちょお、待ち! それ、誰から聞いた——」
「痛っ! 手加減してよ、折れるじゃない!」
クドーの追及をラミロにあげさせられた悲鳴で消してしまった。ルシアの腕が背中側にまわされる。両手首をひとまとめにして片手でつかまれた。
「逃げ出そうとしたら、このまま手首の骨を握り潰す。わかったか?」
骨に軋むような痛みがはしった。
「わざわざデモンストレーションしなくていいでしょ!」
いちいち力を振るってくるところは、兄貴のフレデリーコとそっくりだ。罵倒を続けようとして、やめた。
クドーが小さく顔を横にふっていた。ここで暴れても、体力を削るだけだと思い直す。
「マルティン! その警官はおまえが連れてこい。遅れるな」
忠実な子分が、クドーの腕を乱暴に引っ張る。
手首にくいこむ手錠に、クドーはいろいろな意味での痛みを感じた。
身体が感じている苦痛と、ラミロにつかまえられているルシアを見る無力感と。
いまは従うしかなかった。後ろ手に拘束されたままで暴れるようなアクションなど、自分にはできない。
ふと、背中が軽いことを思い出した。
「待って。そこのバインダー拾て!」
「黙れ、早くこい!」とマルティン。
「荷物いっこ持ってくぐらいええやんか! 他人がどない言おうと大事なもん、あんたにもあるやろ? このまま、あたしがここでゴネ続けて時間食うんと、どっちがマシなん⁉︎」
「ここで始末するぞ! さっさと——」
「うるさいぞ! 拾え、マルティン」
「……へっ?」
振り向いたラミロが、苛立った声をだした。
「二度も言わせるな。さっさと拾え。おれの時間を無駄にするなと言ったんだ。それから、警官には必要以上に手を出すな。敵討ち気分で盛り上がった警官どもが、ひつこく追い回してくる」
「……はい」
マルティンが渋々といった感でうなずく。自分は殴ったくせに……というセリフを呑み込んだようだった。
命令されたバインダーファイルを抱え上げようとするが、片手はクドーの手錠をつかんでいる。残った左手で持とうとして、ボリュームのあるバインダーファイルがばらけて駄々をこねた。
「その布包みの中に戻したらええやん。ショルダーバックかリュックにしたら、手ぇも自由につかえるで」
「わかってる! 今からやるとこだったんだ!」
やりとりを背中で聞きながら、ルシアは笑いをこらえた。
最初こそ、こんな小柄な人が警官で大丈夫なのかと思ったが、神経がザイルなみに太いらしい。
それから嬉しくなった。
こんな場面になっても、バインダーファイルにこだわってくれた。
自分が大事にしているモノも、人も、嗤うやつのほうがずっと多かったから。