[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 六章 3話 痺れるようなこの瞬間
3話 痺れるようなこの瞬間
地階にある診療所は、一階フロアからも簡単に入れる設計にはなっていない。
利便性より訳あり患者の安全確保を優先させた結果であるが、スンは看護師として、この構造をいつももどかしく思っていた。
一階でエレベーターを降り、アイスを支えながら地階につながる階段室へとむかう。人目のあるところでは、どうにか歩いていたアイスだが、一階フロアを抜けると気力も費えてきたようだ。足元がさらにあやしくなっていた。
これまで刺創でも銃創でも、ひとりで歩いて来所していたことを思い出すと、今回のダメージはかなり大きい。
「もう少しですよ、頑張って」
「世話かけてごめんね。さすがに今回はきつくて」
「治療をおえたら、しばらくは休養ですね」
「そだね。動けそうにないしね」
「治ったら旅行とかどうですか。わたしたちの歳になると、湯治なんてのもいいですよね」
「おんせん……」
「予定なんかつくらないで、お風呂入って、寝て、散歩して、またお風呂入って」
「……うん」
アイスの声が弱くなっていく。スンは声をかけ続けながら、階段室の鍵を挿し込んだ。鍵を回す手間さえもどかしくなる。
鍵が外れるなりドアを肩で押し開けた。足で閉める。
肩で支えるアイスが重くなってきていた。自力で立つ力が弱くなっている。早く処置室へ。優先する手順を考えながら急ぐ。
アイスはいわばお得意さんであり、懇意の間柄だった。折にふれ差し入れをしては労ってくれる相手となれば、つい気持ちも焦る。
そうしてスンは、一度もしたことのないミスに気づかずにいた。
アイスと別れた一太は、エレベーターを使わず階段で屋上にむかった。
ひとりで<美園マンション>を歩くうち、ここに着いたときのことを思い返した。
爆発火災をおこした<オーシロ運送>から怜佳を追い、この複合ビルにきたあと、合間を見つけてフードフロアにいった。飲み物でも持って歩いている方が、滞在中の宿泊客らしく見えると考えた。
その過程で、まだ潰れずに残っていたアイスクリーム屋<エスクリム>を見つけた。
店長の髪はすっかり白くなり、一太がまえに立っても、その昔に来ていた子どもだと気づく様子はない。ただ、オーダーしたチョコミント・アイスを手渡すとき、店長はしばし一太の顔をじっと見た。
「失礼、なんだか見覚えのある気がして。思い違いですな」
照れ笑いとともに謝ってきた。
「気にしてない。男の客は結構くるのか?」
「ええ。子どもや女性と一緒にって場合と、男の一人客、半々といった具合です」
「意外だな」
「わたしの知り合いが特殊なのかもしれないが、酒も甘いものも両方好きってやつは、女も男もです。ピサン・ゴレン(バナナのフリット)をつまみに呑むやつだっていますし」
代金を払って店を離れると、一太はアイスクリームを手にしたまま歩き出した。
周囲に知った顔がいない。人目を気にすることもなく甘味をなめた。
アイスクリーム屋は昔のままだった。小さな店舗にはアンバランスに大きな看板で<エスクリム>の屋号。各種アイスクリームの写真でしきつめられた店頭も変わっていない。
それは店内のレイアウトもで、大柄とはいえない一太でも窮屈だろう小さなテーブル席も同じ。
子どもの頃は、ちょうどいい広さだった。
佐藤アインスレーにつれられてデザート巡りするうち、ちびっ子一太のいちばんのお気に入りは、<エスクリム>のチョコミント味のアイスクリームになった。
<ABP倉庫>から近いというわけではなくても、各種ストリートフードから甘いものまでそろっている便利さからか、アイスはよく美園のフードフロアに連れてきてくれた。
そうして何度か<エスクリム>に通っているうちに、甘いチョコレートとバニラ、清涼感のあるミントの組み合わせにはまってしまい、何度もねだるようになった。
——一太の舌はオトナなんだね。
チョコミント・アイスクリームを食べると、なぜオトナになるのか。当時はわからなかった。そうして大人になると今度は、チョコミント・アイスクリームを食べることが難しくなってしまった。その要因は、父親としてのディオゴへの期待と似たようなものだ。
人は、他人のことを見ているようで、実は見ていない。
逆に、見ていないようでも見ている人がいる。
他人の視線なんて、そんなもの。どこを見ているかなんて、こちらからはわからない。気にしても仕方ないことだった。
一太がチョコミント・アイスを好んでいると知ったときの高須賀未央の反応にしてもそうだ。
ミオが一太に注目したのは、とっくに成人した男がアイスクリームなんて変といったことではなく、チョコミント・アイス同好の士を発見したことだった。
それにしても、エレベーターで居合わせたケーシー白衣の整体師が、襲撃したアイスの部屋にいたのには驚いた。
ぼんやりとしか見えていないそうだが、そんな身体で、せっかく逃げ出した屋上に危険を顧みずに舞い戻ってきている。それだけの繋がりがある関係だった。
整体師の存在を知ると、アイスが少し羨ましくもある。
アイスには話せる相手が他にもいた——。
狭い通路を通り抜け、屋上の広い空間に出ると、ひとりになった心持ちが強くなる。一太は感傷的な気分をふりはらい、寺田にかけよった。肩と足の銃創でぐったりしているが死んではいない。
このあとの警察への説明を考えると、始末した方がシンプルにすすめられる……
そう思いつつ、人間を撃つのも厭になっていた。簡単にすむようで、見えない荷物が自分のなかに積み上がっていくのを感じていた。
どうせまだもうひとり、末武がいる。どうするかは、そっちの様子を確かめてからと、その姿を探す。
いなかった。
高架水槽や室外機、排気ダクトといった設備の裏側まで見てまわっても同じだった。
「逃げたか……」
撃ったのは肩だった。転落したアイスを優先し、拘束する間もなく放っておいたのだから、隙があれば当然逃げる。
現場にいる人間がひとり減ってよかったかもしれない。十二村はすでに姿を消したから、残るは寺田だけだ。ボスが転落死した話を小さくする口裏合わせを受け入れさせることができるか。一太はそちらのほうに集中する。
グウィンはミオとともに、怜佳の部屋に招き入れてもらった。
いったんはイスに腰を落としたものの、アイスが気になって落ち着かない。休ませようとするミオと怜佳に礼を言いい、ひとりで部屋を出た。診療所へとむかう。
例によってエレベーターがこなかった。夜食のために下りていた客が戻ってくる時間帯であり、アルコールを求めて外に出る客もいる。定員オーバーで二度見送ったあと、我慢が切れて階段を使うことにした。
アイスはもう診療所についているはず。治療はスンたちに任せておけばいいし、関係者以外は出入りできないセキュリティーで安全も確保されている。
なのに、胸が騒いで仕方がなかった。
故国で戦っていた頃、何もないはずのところでトラップに気づいたときの感覚に似ている。気のせいかもしれない。かといって、偶然だけでは説明できない経験があると無視もできなかった。
ミオには危険だから階段を使うなと言ったとおり、グウィンも用心を怠らない。階段室は音が響きやすいから異状を察知しやすい。何かあれば、すぐエレベーターに引き返すつもりで進めた足は、下りる前から止まった。
階下から足音が伝わってくる。
ただ、向かっているのは下方向だった。
かなりの早足。エレベーターを待っていられなかったことが伺えた。
こちらに向かってくるのではない足音によしとして、グウィンは階段をおりはじめた。
グウィンにとって階段は、上るより下りる方が難しい。美園の階段に、段鼻の色を変えるといったバリアフリーは期待できず、踏み面の境目がわからなかった。
もどかしい気持ちをおさえ、最初の一歩を慎重におろす。
夜間の地階診療所では、警備員が受付カンターを兼務している。顔馴染みの警備スタッフが、アイスを見るなり呆れがまじった笑顔をむけてきた。
「今度はどこやられたんだ?」
ゴールはもうすぐ。少し復活したアイスは微苦笑をみせた。
「楽しそうな顔して訊かないで」
「実はサトーさんがケガしてくる箇所を賭けてる」
「胴元に伝えといて。こっちにも賭け金まわせ」
警備員の笑い声を背にうけて処置室にむかった。
ここにくるまで、人の目に残らないよう平静を装った。脇に立つスンも、目立たないよう気を遣ってくれた。処置室にたどり着いて気が抜けた途端、崩れる落ちるようにイスに座った。
警備員が笑っていたとおり、生死に関わる怪我ではないものの、痛みと倦怠感で気絶したかった。
「おつかれさま。シャツは脱げそうですか?」
すぐにスンが用意にかかる。
「安物だからハサミで切ってくれていいよ」
「貧乏性の罪悪感が騒いじゃって」
「腕を動かすのがつらい、って言ったらいいかな?」
「それじゃ失礼しますね」
思い切りよく、さくさく切っていった。
「ドクター、まだ戻ってきてないんだね」
受付カウンターのほかに、人の気配がなかった。
「宿泊客同士のケンカで呼ばれたんですよ。けっこう派手に暴れ——」
「止まれ! 勝手に入る——」
スンの答えと警備員の警告が重なる。
途中から、ふたりの声を発砲音がかき消した。
さすがは地階診療所で働いているだけはある。スンが反応したのはアイスと同時。フリーズすることなく、銃声を聞いた瞬間で床まで伏せていた。
低い姿勢のままアイスは言った。
「備品室に隠れて」
覚醒剤原料をつかった薬品も保管してあるので、ドアには頑丈な鍵がついている。パニックルームとしても使えるよう内側からも施錠でき、ドアはスチール製。拳銃弾ぐらいなら充分防げる仕様になっていた。
「サトーさんも——」
「スンさんに何かあったら、ドクターの処置を受けるハメになる。絶対に護るから音を出さないでね」
「自力で歩けなかった人が何を言って——だめ、サトーさん!」
「あたしを助けてくれるなら、すぐに鍵をかけて」
強引に押し込んで備品室のドアを閉めた。
一般非公開の診療所に、押し込み強盗が来ることはない。乱入してきた人間の目当ては患者になる。アイスが外にいれば、スンは無事なはずだ。
備品室のドアを閉めたタイミングで処置室のドアがあいた。
黒スーツの男が入ってくる。
末武は、目当ての人物の姿を認め感心した。
「おれの目の前にいるのは幽霊じゃないですよね」
「ナマだよ。疲労困憊、百孔千瘡のボロボロだけどね」
「悪運の強い人だ」
「そうだね。屋上から墜っこちたのに、まだ生きてるんだから」
淡々と応えるアイスに首をかしげた。
「雰囲気が変わっているように思えるのは気のせいですか?」
明るい屋内で、はっきり見える表情は……
「そうか」末武は得心した。
「笑ってないんだ」
いつものお気楽な、ゆるい笑みがなくなっていた。
「どうやってここに入ったの? こっそり合鍵でもつくってた?」
「地階用の階段室に入るドアの鍵なら、銃で開ける必要もなかったですよ。管理が杜撰になったもんです」
「改善要求出しとく。で、あたしにわざわざ会いにきた用は? ボスの仇討ち?」
「それもありました」
「過去形になったんなら早く逃げろ。警官が来てても、おかしくない頃合いだ」
「麻生嶋ディオゴは父親も同然でした」
「<ABP倉庫>は〝家族〟なんかじゃない。入れ込みすぎるな」
「創業者のひとりのくせに言うことが変わってますね。<ABP倉庫>をまとめていたのは、あなたといってもいいぐらいなのに」
「〝家族〟を利用した覚えはない」
「家族になる」という台詞を積極的に使っていたのはディオゴだった。
新人の若者をリクルートするとき、家庭環境に恵まれなかった人間を狙うことが少なからずあった。彼ら彼女のなかには、家族という絆に夢を抱く者がいるからだ。
血縁家族の代わりに仕事仲間を疑似家族にし、精神的安住の場にさせる。疑似家族にすることで忠誠心と結束をつくった。
「ABPは消えること前提で、適切な判断をして。でないと後悔することになる」
「おれの後悔になりそうなことは、退場するかもしれない佐藤アインスレーを指をくわえて見送ることです」
「この怪我じゃ、もう退場したようなもんだ。どんな期待されても応えられない」
末武はかまわず続けた。
「おれは佐藤アインスレーの好敵手になりたかった。そいつがかなったのか確かめたい」
「かつてない高評価もらったかも。で、それを確認してどうするの? ギャラアップはもうできないよ?」
「自己満足で終わってかまわない。客観的な結果がみたいだけです」
「報酬が発生しない争いなんて、体力の無駄遣いでしかない。それに、電池切れ寸前のあたしに勝って意味ある?」
「仕事にハプニングはつきものです。怪我でも想定外の展開でも生き残ってきたのが、〝アイス〟と呼ばれた、あなたの強さだ。ならいまが、それを見る絶好の機会といえる」
「どっちが上かなんて極めてどうでもいい。けど末武は、そこにこだわりたいわけか」
「話に付き合わせておいてなんですが、そろそろ実技審査といきましょう。ふたりだけで話せてよかったです」
「やる前から勝負が見えてる気がする。けど——」アイスの口角が不敵にあがる。
「楽には殺させないよ?」
背中をぞくぞくしたものが走り抜けた。痺れるような陶酔を感じながら、末武も同じ笑みで返した。
「それこそ、おれの望みです」
常人には理解不能だろう、こんなことに肚の底から歓喜がわきあがってくる。
末武は、いまの瞬間が最高だと思う。