[小説]青と黒のチーズイーター １章 その差三十四センチ（公称） 1話 スマートに言えばボディガード
1話 スマートに言えばボディガード
ガタリと鳴った窓に、ルシアは飛び上がりそうになる。
強くなった風が、古い木枠の窓を揺らしただけだった。強張った身体から力を抜き、大きく呼吸した。
迎えが来てくれるのは今日かもしれないし、二日後かもしれない。こんな調子でいては、体力に自信があっても保ちそうにない。
全部の窓を閉め、鍵をかけてしまいたかった。そうすれば、少しは安心できるかもしれない。
しかし、七月の気温が許してくれない。この街の蒸し暑さときたら骨までボイルされそうで、風でも通さないと窒息しそうな息苦しさがあった。
部屋にあった小さなブラウン管テレビは、アンテナの調子が悪いのか映りが悪い。十分もしないうちに消してしまった。部屋が暑くなることだし。
少ない手荷物のなかには、趣味の道具も持ってきた。これがあれば何時間でも時間がつぶせる。けれど、ここでもやはり気温がじゃまをする。暑さに集中が続かず、早々にやめてしまった。
やることがない。
ずっと使っているバインダーファイルを持ってきて、膝の上でひろげた。見るともなしに眺める。
領収書や契約書、その他のメモや走り書き。雑多な紙の集大成のファイルは、時系列にそって綴じてあるので、ちょっとした日記になっていた。
他人が見れば紙ごみの束だが、ルシアが見るとその時々の思い出ががうかんだ。
ダニエラと初めて言葉を交わしたのは、どのあたりでだったか……。
ページを繰るうち、今度はノックの音に両肩をはねあげた。玄関ドアのほうに振りむく。
聞かされていた迎えがきたのかもしれない。
足音を殺して、玄関ドアに近づいた。
実用一点張りのスチール製ドアにつけられた、ドアスコープのカバーをずらす。
そのタイミングで、ドア越しに声をかけられた。
「南方面分署のリウ巡査です。高城ロペス・ルシアさんはこちらですか？」
足が思わず後ろにさがった。
タイミングがよすぎて、スコープの反対側から見えているのではと訝しんだ。
「バッチとIDを出しています。そのままで結構ですので確認してください」
もう一度、覗き込む。
バンドカラーシャツをラフに着た女が、左手で裾をさばき、ウエスト部分につけた警察バッチを見せていた。
そのバッチの後ろに、ヒップホルスターがのぞいている。左利きらしい。
もう一方の手には、IDケース。ただしスコープ越しなので、顔写真や名前を確認するまではできない。
「ドアチェーンはありますか？ チェーンをかけたままで、ドアを開けてください。隙間からIDをお見せします」
このまま居留守を使おうかと思ったが、本物の警官だと困る。缶詰めになっている蒸し風呂状態の部屋にも根を上げかけていた。
言われたとおり、ドアチェーンを外さないまま鍵を外す。用心深く隙間を開けた。
ドアと縦枠のあいだ、見やすい位置で開かれたIDケースをルシアは注視する。
ミッドナイトブルーのシャツに黒のネクタイ。制服姿のリウ・フォンリィェン（劉風蓮）が、カメラ目線でうつっていた。スコープの向こうで見た顔と同じだ。
ドアの隙間から、リウ巡査の全身を見る。
最初に目についたのは、IDを持っていないほうの腕——半袖からでた左前腕のタトゥーだった。
原始的で呪術的的なデザイン。痩身ながら筋肉質な前腕上部から肘にむかって絡みつく文様が、深い青墨色で主張してくる。
そして、あらためて顔を見ようとして、ルシアは顎を上げた。
でかい。
タテの方向に。
ルシアの身長は、女性の平均より十センチメートル以上は高い。そのルシアが同性の顔を見るために見上げるのは、めったにないことだった。
眠たげにもみえる切れ長の目。その左の目尻には、小さくてもくっきり目立つ傷痕。
ルシアが働いていたのは、いわゆる風俗店だ。銃やナイフを隠し持ち、使うことにも躊躇いがない連中も出入りしている。
そんなやつらとは見てくれは似ていても、全然違った。麻薬課によくいる、悪党と見分けがつかない刑事ともまた違う。
自分と同じ二十代後半に見えるが、年齢にそぐわない老練な雰囲気があり、実際の歳がわからなかった。
どういうやつなのか——。
探ろうとするのは、隠れている身のルシアには当然のことだった。
「高城ロペス・ルシアさんで間違いありませんか？」
不躾なほど見つめるばかりのルシアに苛立つようすもなく、リウ巡査が再度訊いてきた。
ルシアは、いちばん確かめたいことを口にした。
「巡査って、ホント？」
銀色のポリスバッジを付けていても、警官だという説得力がない見た目だった。
こういう反応に慣れているのか。頭半分、高い位置にある顔が静かにうなずいた。
まあ、ここで嘘だと答えるやつはいない。
「高城ルシアはあたし。で、用件は？」
「ダニエラ折場カルヴァーリョさんの件です。検察から警護の要請をうけましたので」
「そ。で、あんたがダニーの側だって、どうやって証明してくれる？」
「————」
心なしか、リウが眉を寄せたような気がした。
何度も訊きなおして、気に障ったか。けれど、安全のためにはルシアも妥協できなかった。
人殺しを生ゴミを捨てる程度にしか感じないカルテルの連中を敵に回しているのだ。
「もとから警察なんて信用してないけど、今回のことで、ますます信じられなくなってる。言ってる意味、わかるよね？」
「…………」
「バッジさえ見せたら信用されるなんて、あんたも思ってない——」
「ごめん！ ありがとー！」
ルシアの問いは、二人目の声にさえぎられた。
無言になったリウ巡査の背後から、相反する台詞をならべた、やや高い声が駆けよってくる。
同時に、リウが安堵を感じさせるため息をついた。声のほうを振り返り、ドアの隙間から姿が消えた。
「早かったな」とリウの声。
ルシアは、ドアの向こうに耳をすませた。
「潤餅の屋台すぐに見つけたし、食べながら階段あがってきたし。で、まだドア開けてもろてないいうことは、警官やて信じてもらえてへんと」
「……汚職警官と思われてるかも」
「わかった。交替しよ」
「さっさとして。でないと、ドア閉めて通報するよ？」
二人目は声からして若い女だが、かなり訛りが強い。これほどとなると、高齢者か芸人ぐらいでしか聞いたことがなかった。
今度はどんなやつが来たのか。はっきりしない苛立ちの一方で、ルシアは好奇心をくすぐられた。
ドアの隙間に、新たな人物が姿を見せる。今度は視線をぐっと下げることになった。
小さい。圧倒的に。
自分から銀バッチとIDを並べて見せてきた。
「クドー・マリア巡査です」
身体のラインは成人女性のそれでも、後ろに立っているリウより、頭ひとつぶん以上低い身長しかなかった。
そのうえ瞳が大きな童顔だから、警官の制服を着たID写真がコスプレに見えなくもない。積極的にIDを見せるわけだ。
アウターにしているシャツと、Ｔシャツのコーデに失敗しているところだけは、ある意味警官らしく見えた。
「そっちのでかいお巡りさんから、警護にきたって聞いた。ダニー……ダニエラ折場カルヴァーリョのことで護ってくれるっていうんなら、あいつらの仲間じゃないって証明してみせて」
「つまりあたしらが、ダニエラ折場さんの近しい人を盾にして、証言を封じ込めに来た悪者かもしれへんと？」
ルシアは険しい視線を返して答えにする。
受けたクドーが、にっこり笑う。
「そやったら、こうしてドア開けてもろた瞬間に、ボルトカッター差し込んで、チェーン切り落としてますって」
「…………」
「ほんまは検察が迎えくるはずやったんですけど、ちょっと手間どって遅れてます。この家、窓に面格子もついてへんし、押し入るのは簡単です。せやから、迎えがくるまで警護させてください。
あっ、そや。高城さんに信用してもらうために、あたしらのこと、うちの副署長に電話で確認するいうのはどうですか？ 市警察本部から転属してきたばっかりの幹部やから、高城さんが心配するような——」
「わかった、わかった。入っていいから」
ルシアはチェーンを外すために、いったんドアを閉めた。そのまま話しかける。
「誰が味方かわかんなくて神経質になってる。さっきの『ルンピン』が符牒に聞こえるほどにね。気を悪くしたなら謝るわ」
「全然。用心はええことです。不安なときは、そういうもんです」
ドア越しのクドーの声に、不機嫌の色はない。
「カルテルの連中が相手です。どれだけ用心しても、用心しすぎることはあらへん。それぐらい警戒してもろて、ちょうどやと思います」
ルシアはチェーンを外し、ドアを解放した。
「ところで『ルンビン』って、なに？ この街にきて四年ぐらいなんだけど、食べ物関係の単語になると、いまだにわかんない言葉がいっぱい出てくる」
「台湾の野菜クレープみたいなもんです。朝ごはん——世間的にいうと昼ごはんを食べそこねてたんで」
「仕事中にルンビン食べるのはOKなの？」
「ほんまはダメです」
言い切ったくせにクドーは笑う。
「口止め料に差し入れでもせんとあかんかな？ 食事外出も控えてほしいんで」
「いいよ。告げ口しないし、食欲もない。外出は最初っから全然してない」
ルシアは、凹凸コンビを部屋へとうながした。
「おじゃましまぁす！」
遊びにきたようなクドーに続き、デカいのに圧迫感を感じさせないリウが、黙礼をしながら入ってきた。
ふたりを見ながら、ルシアは妙なことになったとも思う。
自分みたいな夜営業の店のダンサーに、警官の警護がつくとは。
ダニエラが警察に情報提供する交換条件のひとつとして出したものだが、果たしてこの警官たちは、本当に安全なのか……。
ただ、屈強な男性警官ではなくて、凸凹巡査コンビがきた。夜の客商売の女の扱いなど、この程度で充分ということなら、警察らしい判断だ。クドーの言うことに信憑性がもてた。
＜モレリア・カルテル＞もこの街では新参者だ。地理に疎いから、ミナミは絶好の隠れ場所といえる。巡査コンビで充分ともいえた。
とりあえず、クドーがいい話し相手になりそうだった。人懐こく明るい雰囲気で、出迎える前にあった緊張がほぐれた。
すっかり信頼できるというわけではないが。
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